未来はどう決まるのか?

2010年4月23日 | コメント(1) | トラックバック(0) このエントリをメール このエントリをYahoo!ブックマークに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 このエントリをtwitterに登録

 私は馬券を買うと、「当りますように」と釈迦如来坐像に手を合わせるが、残念ながら当たるわけがない。仏教の使用方法を間違えている。

 祈るならカミサマに限る。キリスト教的には「世界は神の思し召し」なのであるから、次のレースでなにを1着にするかも決められるはずだ。

 一方、仏教の開祖ゴータマ・ブッダは一個人である。ある人たちに役に立つことを言って行った人であり、世界を牛耳っているわけではない。

 もっとも、仏教は行為論(業論)であるので、現在の自分の行為が未来を作る。その意味で、現在の仏頼みという行為も、なにがしか未来に影響は与えていると捉えたほうがいいだろう。

 けれど、仏教の行為論の本質は、「未来の私は、神が決めるのでも運命で決まっているのでもなく、私の行為が作る」と "信じ"、"信じ続けて" 次の一歩を踏み出すことにあると私は理解している。

 未来が思った通りに、なるかもしれないし、ならないかもしれない。仮にならなくても、また信じて歩み出すパワーを仏教は私に与えてくれている。

 未来は神が決める? 未来は私のおこないが作り出す?

 どちらを採るか趣味の問題だが、後者のほうがいい趣味だと思ったから、私は仏教に乗ってみた。

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風見鶏 | 2010年4月24日 20:08

 「私は、こんな事のために生まれてきたのではない」と言った人がいたが、人が何のために生まれてきたのかは『神のみぞ知る』ことであり、本人は知る由もない。
 仏教的に言えば、今我々が見ている世界は、縁起の法によってもたらされた空の世界であり、本質は無いということ。(色即是空)さらに唯識によれば、外の世界は無く、我々の心の世界が顕現したものである。よって、事の本質は我々の心の中にある。(一切不離識 唯識無境)しかしながら、我々は外の世界に振り回されて生きており、それに従って生ずる心の中は迷妄に覆われている。これらの迷妄(暗雲)を断ち切って、明鏡止水のごとく心を調律すれば、真の世界(真如)が見えてきて悟り(涅槃)の世界に入る事ができる。というのが、仏教の教えるところである。
 我々は、外の世界にがんじがらめに縛られて、振り回されており、自由が無い状態になっている。それは、家庭、会社、財産、借金、社会的地位、名声といった外の環境に縛られて、心の自由を失っているということ。鈴木大拙博士によれば、「自由」とは、「おのずからによる」ことであり、正にこれが禅の目指す境地です。
 少し難しく言えば、自己自身が真の根源的な主体的自覚に達するということが、悟りの本質です。しかしながら、真宗の立場から言えば、すでに自己自身が本来無明煩悩に汚染されている以上、それは自己自身によっては不可能だということになります。よって他力による(阿弥陀如来の本願力)しかない訳です。しかし、自力、他力というのは悟りへのプロセスを別々の側面から見たものであり、本質的には同じことを指していると見ていい、というのが大拙の見解です。これは、道元禅師も、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(現成公案)ということで、これは禅から見た他力的立場であり、立証されるわけです。
 これが、私がサラリーマンをしながら、ここ10年程仏教について独学で学んできたことです。独学では独善的な解釈に陥りやすいのですが、鈴木大拙博士の論考をホームポジションとして、基本を外さないようにしてきました。

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