私が新興宗教をバカにしてしまう理由
2009年12月10日 | コメント(0) | トラックバック(0)
こちら、私の、「言いたくなったこと書き留めノート」(PC上)の11/25に記されていたもの。
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国家と国民の関係において信教の自由は当然に保障されるべきですが、私が、新興宗教をバカにしてしまう理由。
それは、彼ら彼女らが、「分かった」と思っていること。「世界は...」「宇宙は...」「大自然の...」、あの人たちは、そういうことを軽々しく言う。
「人間ってね...。」みたいな説教に遭遇すると、「That's nice Idea!」(それはいいアイデアだ!)と一笑してしまいます。
私にとっての「信仰」とは、「分からなさ」を埋める "なにか" なのです。
分かったと思って信仰する新興宗教。私はそうじゃない。分からない部分を埋めるなにかとして、仏教を信じて "みている" のです。
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「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。
(中略)
では、仏教はニヒリズムか? あらゆる立場や考え方を相対化して、傍観し冷笑するのか?
(中略)
思うに、仏教は(仏教を含む)あらゆる立場や考えの相対性を認めた上で、「絶対確実な根拠」を持たぬまま、ある一つの立場(仏教者なら無常と無我の考え)を選ぶべきだと、勧めているのです。この決断(私に言わせれば、賭け=「信」)こそが、ニヒリズムの向こう側に出る営為でしょう。
うーん、俺もなかなかいいところまできたかな?(笑) まぁ、ともかく。
私には、「わからなさを埋めるものとして、仏教が立てた『説』を使ってみよう」ということとしてしか、仏教はもとより、宗教のリアリティを感じられませんでした。
まことに申し訳ないのですが、俗人の私には、「宇宙の真理と一体化する」とか「神のお告げを聞いた」とか「誰それの生まれ変わりだ」とかいう話は、アホらしくて聞いていられないのです。
同時に、南師のブログでも触れられているような「仏教は哲学だ」とか「科学だ」とか「現代の量子力学に通じる」だとかいう "インテリ派" のカイセツも、私にはドウデモイイこととなります。「わからなさを埋める信である」という意味において、私は、「南無阿弥陀仏と一発称えれば極楽浄土に往生できる」という「説」も容易に受け入れることができます。
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