南直哉師の仏教と私の関係

2009年1月27日 | コメント(1) | トラックバック(0) このエントリをメール このエントリをYahoo!ブックマークに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 このエントリをtwitterに登録

 昨日は南直哉師の講義「仏教・私流」の後、久しぶりに二人で食事に。何か月ぶりでしょうか。さて、少々重い話になりますが、いろいろと話し聞いていて、南直哉師の仏教と私との関係性が、5年半の歳月を経てようやくわかってきました。衝撃の結論は、私は南師の仏教のターゲットではない、ということです(笑)

 南師の仏教が想定する、いわば「ターゲット」は、諸々詮索するまでもなく、例えば近著の前書きにこうあります。

悩んだり、引きこもったり、リストカットしたり、時には凶行に及ばざるを得ないような人に、強い親近感を感じるのです。
『なぜこんなに生きにくいのか』

 私、「引きこもったり、リストカットしたり、時には凶行に及ばざるを得ない」ことがあったかというと、ないです。直接の面識がある方はご承知の通り、引きこもるどころかアクティブであるし、自傷行為に関心はなくどちらかといえば長生きしたい。社会を小馬鹿にすることはあっても押しつぶされそうになることはなく、鬱になるより躁になり、落ち込むより自信過多であり、本質的に楽天的であります。

 「では、なんで仏教?」という問いに、漏れなくダブりなく答えるのは難しいけど、簡単にいえば、一つは、溢れんばかりの欲望と、思い通りにならなかったときのシンドサをどう取り扱ったらいいものか、ということ。もう一つは、ありきたりな、俺の人生はいったいなんなんだ、というようなこと。

 そんな私が南師のところへ行ったのは間違いだったのか? や、少なくとも、私が見た限り、南師の仏教が一番「使えた」ことは事実であり、その答えに今も変わりありません。

 その他の見てきたものはおよそ二つに分類されます。一つは、「人間はもともと悟っていて、この現実世界には真理が現れている。それに気づきさえすればいいんだよ。」というもの。南師の切り口でいえば、現象=本質。もう一つは、「この現実世界は幻だ。修行に励んで悟るのだ。」。現象を否定して、本質を掴み獲れと。私はこのどちらにも乗れなかった。前者は、そんなアリガタイ話を聞いてシアワセになれるほどピュアではなかったし、後者の悠長な話しに付き合っているほどヒマでなく、また、後者を語る人物が - 彼が悟ったのかどうか不明だが - 、少なくとも魅力的な、憧れるような人物ではなかった。

 もっとも、南師以外のすべてがダメだったわけじゃなく、「使える」と思ったものはいくつかあります。例えばテーラワーダ仏教(上座仏教)。現代テーラワーダのスマナサーラ長老の本などは何冊か読んだし、ヴィパッサナーも直伝で指導してもらった。いわんや、パーリの経典に出てくる素朴な縁起論(Aには原因Bがあり、原因Bを滅すればAも滅する)、「愛するものと別れるのは苦しい。だから人を愛するな。」もいいと思う。

 テーラワーダに完全に入り込めなかった理由は二つ。一つは、壮大な理論体系(アビダルマ含む)に比して、実践が淡白のように私には見えたこと。もう一つは、「何々はダメで、こうあるべし」ということをテーラワーダは繰り返し説くのだけど、現実の、「人間は、なぜダメになるのか」について深く語らない。つまり、理論とそれに基づく理想はよく分かるんだけど、日々溢れんばかりの欲望の渦中にいる私が、どう実践したらいいのか、どうして現実に私はこうなっちゃうのかが分からなかった。

 南直哉師という人が、その文章や語り口から世間にどのように映っているのか分からないけど、決して完全無欠の聖者ではない。時々の環境の中で、禅僧としてどう在ろうかと苦闘、苦悶されているように私には見えるし、その一方で、「ダメな理由」も閉口することなく説明を試みる(言語論)。理論と実践、理想と現実、縦横無尽に仏教に取り組んでいる。それは、きっと、伝承芸として、あるいは職業訓練としてではなく、人生に仏教がほんとうに必要であったからにほかならないでしょう。

 さてさて。そう整理できたときに、私が取り組みたいことは、南師の仏教を、私のような異なるターゲットにも広めたいということ。イメージとしては、ビジネス街の、経営者であったりビジネスパーソンが、あるいは、繁華街のニーチャン、ネーチャンが、ふと躓いたときに仏教にあたってみて、そうしてまた前を向いて走り出すようなもの。そういう仏教があってもいいんじゃないかと思うのです。もちろん、「経営のための禅」とか、そういうレベルじゃなくてね。それから、実はこのターゲットは予て新興宗教が担ってきた領域だとも思うわけですが、ああいうものでもまたなくて。

 アプローチは、南師にターゲットを広げてもらうか、でなければ、南師の仏教を私がラッピングし直すか。そしてそれを、在俗の身でやるのか、出家としてやるのか。

 最後に、昨日の、思わずメモしてしまったお言葉をば。

 人間は、思ったようにはならない。人間は、振る舞ったようになる。

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コメント(1件)

eiko_ellen | 2009年1月31日 16:12

子育てに奮闘中のとき、子は親の思う通りにはならないが
する通りにはなるという言葉に出会って少し肩の力が抜けて
なるようになると思ったことがありますが、似ている?

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