中山大臣
2008年9月29日 | コメント(0) | トラックバック(0)
野党が仕込んだんではないかというほどの自爆っぶりでしたね。私は、日教組について云々する知見もないし興味もありません。右でも左でも宗教でも、とにかく集団となってドドドッと押し掛けるような輩は私の趣味にそぐいません。友だちになりたいとは思わない。ただ、彼は少なくとも、日本国憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」を踏みにじっている。
「天皇〜その他の公務員」という主語は、厳密な意味での「公人」、税金を収入とし国の運営を任されている人々。だから、たとえ私人としていかなる思想信条を持っていたとしても、彼らは日本国憲法を頂点とする日本国法体系の枠組みの中で言動をする必要がある。
日教組、成田、アイヌといった各論よりも、私が本質的に彼のクオリティを疑うのは、「公のためにはある程度自分のことを犠牲にしてでも尽くすという精神が必要と普段思っている」という発言です。
少なくとも現行法体系の枠組みにそのような「滅私奉公」的考えは組み込まれていないし、東京大学法学部で何を学んだのか知りませんが、むしろ、それは、古典的なもの、前近代的なものとして淘汰されてきたものです。済んだ、終わった、滅びた考えかたです。
一人一人の人間は、元来、国家から独立して存在している。国家は、共同生活の維持のために仕方なく存在するものである。国家とは、その目的を超えて権力を乱用、暴走しないように、監視されるべきものである。極めて限定的、例外的にのみ、個人の人権は制約される(現行憲法の表現でいえば「公共の福祉に反」する場合)。というのが私の国家観であり(法学的には基本的に「トレンディ」なものであるはずです)、彼のような考え方は、率直に言って、大嫌いで、早くこの地球上から消滅すればいいと思います。
念のため付け加えておくと、(今は違うのは承知だが、)憲法を「そう」改正したいと思っているのだとしても、いわゆる憲法改正限界説からすれば不可能です。限界説とは、憲法が定める改正手続きを経ても、その憲法が持つ基本理念を超越するような改正はできないというもので、例えば、日本国憲法の改正手続きによって、国民投票で多数を得たとしても、国民主権を天皇主権に変更することはできないということです。この立場に立つと、1945年制定の日本国憲法を「明治憲法の改正の結果」とすることは出来ず、1945年のポツダム宣言受諾によって、一種の「革命」があったと理論付けることになります(「八月革命説」)。現行憲法の基本理念と異なることを実現したいのであれば、政治家ではなく(税金でメシを食わず)、革命家になるべきです。
ともかく、麻生総理も言っているように、国務大臣として甚だ不適切です。ベッドで愛人に囁くのは自由ですが、外でああいうことを言ってはいけません。
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