« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »
朝青龍
チャオ(伊)、忠如です。
ごめんなさい。朝青龍、どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっでもよくないですか!?
今日の「ニュース23」、“トップニュース”ですよ。即、チャンネル回しました。
「おとうさん、おとうさん、朝青龍、帰国したんだって!!!!」「えっ、ほんとか!? あちゃーーー!」みたいなことになってるんでしょうか、平均的な日本の家庭は。
さっぱり分かりませんです。
au に変えた
アニョハセヨー(韓)、忠如です。
プライベートな携帯電話、10年以上ドコモを使ってきましたが、au に変えました。
au が9月1日から始める「誰でも割」で、ドコモを10年以上使ってきたアドバンテージ(基本使用料が半額)が無くなるためです。同等の条件になるなら、au のがいいなーと前から思っていたので。
W54T という最新の機種を買いましたがすごいですね~。テレビ(ワンセグ)はもちろん、music Player、FMラジオ、GPSを使ったナビなどになります。家電量販店でも隅っこに追いやられている携帯ラジオを買ってまでラジオを聴くのが好きな私としては、FMラジオが聞けるのは嬉しい。
カメラもオートフォーカスの300万画素くらい。それに、モバイルSuicaになってるんで、電車の乗り降りもコレでOK。いいですねー。
あ、番号ポータビリティーは使わなかったので、電話番号変わってます。あの、皆さんよほど友だちが多いんでしょう、「電話番号が変わるのが嫌だ」っていうニーズが私にはよくわかりません。だって、また教えればいいだけですよね。5人ずつメール送れるので、30分くらいマクドナルドに籠もってメール打ちまくれば終わります、私の場合。
携帯メールを知らない人には、わざわざいきなり電話するのもあれなので、お伝えできていません。ご入り用の方は連絡ください。旧の電話番号も9月中旬くらいまで使える予定です。
人間は、生来、自由である。なにものにも拘束されない。
グーテンターク(独)、忠如です。
今日、3名の死刑が執行されたそうで。かねて申し上げているように、私は死刑に反対です。思想・信条的な理由はともかく、死刑という制度は「飛躍」しているんです。
皮肉に言えば、死刑制度に賛成する方というのは、「人間は国家の下に産まれている」と考える人でしょう。まったくお国にとって都合の良い人です。
私はそうではないのです。「人間は本質的に自由である」と考えるのです。国家、会社、学校、家族…、なんでもいいのですが、いかなる他者にも、本来、人間は拘束されないのです。なにからも、フリーダムなんです、人間は。
日本に住む限りにおいて、日本の法を守る。この学校に在学する限りにおいて、校則を守る。いずれも、単なる契約です。法だの校則だの就業規則だの家訓だの、そんなものは「人の倫(みち)」なんぞじゃなくて、単なる契約の条文に過ぎません。だから、その契約を辞めたければ、辞めればいいんです。日本を捨てれば、学校を捨てれば、会社を辞めれば、家を捨てれば、それでいい。それだけの話。
「日本に住むなら守らなければならないルール」を破ったときに、取り得る罰則の限度は、「日本追放」なんです。「日本に住むルールを破ったから死んでもらう」というのは、私には「飛躍」にしか思えない。
仮釈放なしの終身刑は、刑務所で飯食わせる税金が勿体ないです。だから、流罪にすればいい。今だって、死刑執行までに何十年も飯食わせてるんですから、それに比べたら、おんぼろボートの一つくらい買うのはたいしたことじゃないでしょう。おんぼろボートに乗せて、年に一回まとめて、太平洋の真ん中当たりに置いてくればいいんですよ。そこから先、生き抜けるか、死んでしまうかは、あとはその人次第です。
そのチャンスさえ与えずに、なんで何十年も閉じ込めて、挙句の果てに殺さねばならないのか。その意図がさっぱり分かりません。ウンコを、大切に箱に入れ、水を遣り、取っておいて、十年後にトイレに流す、そんなようで、ちょっと違う意味でも、そもそも頭悪いんちゃう? という感じ。
「人間は、生来、自由である。なにものにも拘束されない」。この、先人が命を捧げてつかんだ人権の概念が分からなくなっている人が多い気がします。だから、「国を愛す」みたいなくだらない話が、憲法に入り込みそうになったりする。個人(A)と国家(B)と憲法、この三者がどういう関係にあるのかが分かっていないんです(憲法は、AがBを制限するもので、BがAに命令するものじゃありません)。
「歴史は繰り返す」というのはこういうことなんでしょう。悲しいものです。
煩悩は断じるべきか
ボンジュール、忠如です。
「煩悩は断じるべきか」。私は何を突然語りだすのでしょう。
比較的後代の成立ですが、大乗菩薩が持つべき4つの請願として、「四弘誓願」(しぐせいがん)というものが伝承されています。その2つ目が、「煩悩無尽誓願断」(ぼんのうむじんせいがんだん)。「尽きること無い煩悩を、断つことを誓願する」、そういうことです。一般にも、仏教=煩悩を消す、無くす、滅ぼす、といった連想があるでしょう。
ところが、どうも私にはしっくりきません。早い話、煩悩を断つことは、手段であって目的じゃないよ、という反論です。
修行をして禁欲的な生活を送るといったようなことは、仏教以前からインドの修行者はやっていました。そんなことはどうでもよくて、仏教のオリジナリティは、「原因があって結果がある」ということです。
「当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、運命論や決定論、あるいは創造主や一神教を認める立場では、こうはなりません。「なぜ、世界はかくの如くに成立しているか」に、「神の思し召し」「そう決まっている」「それが運命だ」と答えるのですから。仏教は、「原因があって結果がある」と答えるのです。
この「結果」のところに、「苦しみ」を当てはめます。「原因があって苦しみがある」。ここがゴータマ・ブッダの宗教活動のスタートです。これを、ひっくり返します。「原因を無くせば、苦しみが無くなる」。では、原因は何か。それが煩悩であると繋がってくるのです。「煩悩を無くせば、苦しみが無くなる」、と。
従って、「煩悩を断じよ」という場合、2つの前提が必要です。まず、「苦しみ」を感じていること。次に、「苦しみ」の原因として「煩悩」が相応しいかということ。
煩悩マミレ、酒池肉林の生活を送っている人がいても、彼が「苦しみ」を感じていないのであれば、いずれ感じるかどうかはともかく、それで結構じゃないですか。煩悩? 大きなお世話です。また、借金に苦しんでいるという場合。その原因は煩悩じゃありません。借りたお金を返すアテがないことが原因です。煩悩云々する前に、仕事を探して働くことが先決です。
そして、もっと問題なのは、手段と目的を混同すると、えてして「どうだすごいだろー」になることです。ある目的に有効な限りにおいて利用できる手段が、手段を維持、続けていくことそれ自体が目的と転じてしまう。
曰く、「私は菜食主義だ」とか。「で?」「だから?」と一蹴したくなります。何かの目的があって、それに有効であるから、野菜のみ食べる、という手段をとればいいのです。目的を共有しない他人にわざわざ自慢することじゃないし、「主義」なんて付すほどのことでもありません。
「サイショクシュギ? オーイッツソーキュート、アイムニクショクシュギ、オーマイブッダ、ケタケタケタ」と笑い飛ばしたくなります。
靖国参拝
早苗ちゃんが行ったそうで。
ま、私はどっちでもいいと思っています。かねて小泉純一郎氏がまとめたように、靖国参拝批判は、3つの理由に集約されます。1.「不快に思うアジア諸国がある」、2.「A級戦犯が合祀されている」、3.「憲法違反(政教分離)」。
どれも、容易に反論できます。略。というわけで、私はどうぞご自由に、という立場です。
但し一点。その人の「宗教的センス」を感じます。ご承知の通り、靖国神社には、別に遺骨が埋葬されているわけではありません。戦争で亡くなった人々の「魂」が祀ってある、ということになっています。
従って、わざわざこの暑い中参拝に行くということは、彼や彼女は、あそこに魂が祀られていると思っているんだ、と私は理解します。
ワタクシのような若造は、「そんなものはあるわけがない」と思っていますから、宗教センスの問題として、理解することができないのです。けど、自由ですので、ご自由に、と。
終戦記念日に際し、先の大戦で心ならず命を落とされた皆様、また、ご迷惑をお掛けした周辺諸国の皆様に、哀悼の念を申し上げます。また、仏教者の端くれとして、日本仏教教団が国策に全面加担し、戦争の片棒を担いだ過去を恥じ、今後、二度と過ちを犯さぬよう、私なりに出来る努力をして参る所存であること、あわせて申し添えます。
アリエナーイ人々
今日、有楽町のカフェでコーヒーを飲んでいたら、隣に座ろうとトレーを持ってやってきた若夫婦のダンナが、ラージのホットコーヒーを、おもっきり全部こぼしました。
「被害」はとくになかったですが、アリエナーイです。ぜったいにボクはそんなこと犯しませんて。だって、今注目するところはソコしかないですもの。案外、奥さんも怒ってないんですね。「あらー、キャハ」的な。いやー、ボクがツマなら、離婚です、こんなダンナとは。
そう、それで思い出しましたが、昨日の夜、トモダチと浜松町でご飯を食べていたところ、ま、キサクな居酒屋みたいなところなんですが、チクワの揚げ物みたいなのを4つ頼んだのです。そしたら、店のオカミ的なオバサンが、1つ落としたんですよ、運んで出すときに。で、落ちなかった3つを出して、「いやー、ゴメンナサイね、ゴメンナサイね」とのこと。「うん、うん」。またしばらくして、「やー、ゴメンナサイね」。「うん、うん(…で?)」。そして、最終的に、「これ(チーズの燻製みたいなの)どうぞ食べて? サービスだから」。えーーー。もう一度作るのかと思いきや、「ゴメンナサイね」で「ハイ、ソレマーデーヨー」なことになってるんです。で、チーズで口封じ。これがエドの人情というものですか? そんなものいらないから、チクワをくれい。
うーん、よう分かりません。
新居
写真の絶景、我が家から… や、正確に言うと、玄関を出て、廊下の外の左っかわを見た景色です。
引っ越しもやっと一段落。淑女諸君の来客を待ってますよー。以下続く。

私、部屋は昔から「床座り」のスタイルなのですが、それだと勉強ができないので、今回うまく出窓スペースを使って、「執務」エリアを作りました。高層ビルの点滅赤ランプを見ながら、文献を読む。オツです。ちなみに、出窓の端にネコが寝てます。

ツイテイナイ
火曜日にちょっとだけ株を売ったところ、本日、爆騰中。最近ツイテイナイ忠如です。
気づいたら久々になってしまいましたが、8/2-4と京都でスクーリング、インド仏教教団と女性についての「ゼミ」をしてきました。
まだレポートの提出期間中なので、細かくは書かないようにしますが、私は、「女性と覚り」についてまとめました。
律蔵に基づいて運営された初期~部派仏教では、女性も覚れる(阿羅漢果を得られる)と書いてあるのですが(「比丘尼犍度」)、ところが大乗仏教になると、女性は成仏できるのかという問いに対して、いったん男に生まれ変わって成仏する、という思想に展開しちゃいます(変成男子、『法華経』など)。さ~困った困った、街の仏教者の皆さん、どう説明しますかね~。