麺飯食堂なかじま
2007年3月22日 | コメント(0) | トラックバック(0)
火曜日は夜、渋谷へ。渋谷へ行ったら寄る「麺飯食堂なかじま」で、炒飯セット(900円)を食べました。週代りのチャーハンと小ラーメン(熟成塩ラーメン)。行きだした頃は空いていたのに、最近はずいぶんと混んでいる。またみんなに着いてこられちゃったな~、アンテナ合ってるな~ オレ、と自画自賛。
それはそうと、本ブログは「大学で仏教学を学ぶIT企業サラリーマン兼仏教者のブログ」ということなんで、少しは仏教のことも書いていこうと思います。というわけで今日は「食」。
インドの仏教修行者の食の大原則は乞食(こつじき/托鉢)です。人からもらったものを食べる、ということ。
仏教の修行者のことを比丘(びく/原語bhikku)と呼びますが、比丘は修行形態の一つを指す名詞として仏教以前からあったようです。その意味は行乞食者。乞食を行う者を指す名詞を仏教の修行者に適用したということから、仏教における乞食という食形態の重要さが明らかだろうと思います。
食については諸々細かいルールが設定されています。たとえば、食事は正午までに終えないといけません。正午を過ぎたら基本的には食べちゃいけない。
修行者というと山里離れた森の中で暮らしているようにイメージするかもしれませんが、現実には、朝、乞食に出かけご飯をもらって、そして帰ってきて正午までに食べるわけで、そのためには、午前中のうちに村を往復できる程度の距離に住め、ということになっています。
それから食といえば、肉食の問題。仏教=肉を食べないと思われたりします。けどそれは、どちらかといえば後世の大乗仏教諸国(日本を除く)で生まれた考え方。インドの比丘の原則は、人からもらったものを食べるということです。肉をもらった場合は、普通に食べます。但し、比丘はあくまでも世俗の人の余りものを食べることが原則ですので、比丘に施すためにわざわざ動物を殺してはいけないということになっていいます。
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注1 時代区分や文献の明示なく私が「インドの仏教」と言った場合、いわゆる原始仏典(経と律)を読んできた中で語っています。時代的には前4C~紀元前後ころのことと推定されます。
注2 ブログを書くためにわざわざ文献を読み返したり辞書を引いたり、あるいは前提や仮定、異論、異説を確認するほど律儀ではないです。私の記憶の限りで即興で書いています。細かいことはご了承ください。
注3 当たり前のことですが、私は「インドの仏教はこうでした」と言っているだけで、それが「正しい」とか「本来の姿だ」とか、そういうことは意図していません。インドはそうでした、という話から、何を感じ、何を考えるかは、個々人の問題です。
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