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東京ミッドタウン、オープン

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 勤務先のある複合商業施設「東京ミッドタウン」が本日グランドオープンしました。

 オープン前から勤務していましたが、オープンしてみると、こんなに空間があったんだと驚くほどに、たくさんのお店があります。ぜひお近くにお越しの際はお立ち寄りください。

 会社の同僚とそんな話をしたのですが、気持ちの良いステキな空間で仕事ができるというのは嬉しいことです。

 むかーし昔、学生時代、いろんな人の懐に入り込んで仕事していたころは、原宿のエレベーターのないマンションの501号室、駒込のライオンズマンション、高田馬場のテナント… いろんなところに寝袋を持ち込んで仕事していました。

 23歳で今の会社に入ってから、青山パラシオタワー六本木ヒルズ東京ミッドタウンと移ってきました。この先はどこに続いて行くのでしょう…。

会議王

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 週のはじめは隨分と忙しいです。まして期末なのでいろいろあって。

 今日(火曜)なんて、11時、12時、14時、15時、16時、17時と会議や打ち合わせ。しかも私がメイン・スピーカーな場ばっかりで、延々喋り通しで疲れました。17時からの会議中、急に交感神経が刺激されたみたいで、目まい風なことになって、「俺の人生、ここで終わったか、こんな話で終わりたくなかったけどな」と思いました。やっとデスクワークに就けたのは18時半くらいから。

 まぁまぁ、世の中もっと忙しい人はたくさんいますが、ちょっと堪えます。まして、偉い人は会議で仕事が終わるんだろけど、こちとら会議が終わったら銃を構えて再び前線に行かないとといけません。

 会議といえば、インド仏教の部派教団にも会議があります。「羯磨」(かつま/こんま)といいます。語りだしたら切りがないのでやめますが、一つだけ、仏教教団の会議の大原則は、全員賛成です。一人でも反対がいれば議案は却下です。

加護ちゃん、引退だそうで

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 加護ちゃん喫煙~お坊さんのルールで触れましたが、結局、所属事務所が契約解除、引退だそうですね。

 うーん。ファンでもなんでもありませんが(ただの一曲さえ彼女の歌を知りません)、知らぬ間にずいぶんと世間の常識と私はズレてしまったのかなあ。

 19歳の芸能人が、2回タバコがバレた程度のことが、そんなに悪いことなんですかねえ? ちなみに、夏川純のごとく、実は「サバ読んでました」ってことなら、OK になるわけですかね? ともかく、12-13歳のころから芸能界しか知らない彼女が、19歳で引退していったいどうするんでしょう? 週刊誌だとかそういうのは、そういうことまで考えて写真を撮り、載せているんでしょうか? これが公益にかなう報道? 紙の無駄遣いじゃ、くだらない。

 それから、岩城滉一、井上陽水、上田正樹、萩原健一、美川憲一、勝新太郎、槙原敬之、いしだ壱成… これ、みんな薬(覚せい剤や大麻)で逮捕されて有罪ですよ。内田裕也、内藤やす子、にしきのあきら、研ナオコ、長渕剛、このあたりは逮捕されたが起訴猶予(ソースはこちら)。

 ドラッグ使ってたのがテレビ出てて、19歳のタバコ2回がテレビに出れないんですかね? ようわからんです。

 そもそも昨今、テレビの向こうのことについて、どうも潔癖になり過ぎてやしないですかね? もっと、フワッとしたところがあっていいと思うんですよね。

 テレビの向こうって、ちょっとダーティーなカンジがあっていいと思うんです。このまま行くと、NHK みたいなものしかできなくなると思うんですよね。NHK 見ない私にはようわかりませんが。

加護ちゃん喫煙~お坊さんのルール

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またも喫煙?加護ちゃん引退危機

 それくらいエエヤンゲーーーーーーーーーーー、と笑ってしまいましたが、笑いごとじゃないようですね。引退? なんでじゃ。。。未成年たってねえ、立派な社会人ですよ、加護ちゃん。並のオッサンよりストレスもあるでしょうに。タバコくらい吸わしたりーなと思いますけどね。

 かくいう私も、お酒は付き合いの乾杯くらいしか飲みませんが、タバコは16歳から吸っています。我が家はタバコには寛容だったので、高校生のときから普通に部屋に灰皿がありました。

 仏教ではお酒はダメなことになっていますが、タバコはアリです。スリランカのお坊さんはプカプカ煙草は吸っているそうです。ダメって書いてないからアリなんです。

 どこに書いていないかというと、お坊さんの日常生活のルールを定めた「律」(vinaya)と呼ばれる文献です。インド仏教は、仏滅後100年ころから部派に分裂していきますが、ブッダの説法とされる「経」(sutta)と、この律、そして経の注釈書である「論」(abhidamma)の3つの文献を、部派ごとに保持、伝えていきます。この3つを合わせて「三蔵」(tri-piTaka)といいます。

 律は、お坊さんが個人として守らないといけないルール(学処)や、集団(サンガ)としての行事の執行方法(たとえば授戒だとか安居だとか)が記されています。

 私が、卒業論文の題材にするのがこの律です。スリランカ上座部が伝えたパーリ律、漢訳では『四分律』(法蔵部)、『五分律』(化地部)、『十誦律』(説一切有部)、『摩訶僧祇律』(大衆部)などがまとまった形で現存します。

 後代というか今日も、「戒律」という熟語で、仏教のルールや心がけなどが総称されますが、インドに戒律という語に相当する原語はありません。「戒」(sIla)と律は別の概念です。

 戒は「心がけ」ほどの意味で、仏教徒たるものこうあって欲しい、みたいな感じ。そうならなかったからといって罰せられません。一方、律に記される約250の学処(まとめて波羅提木叉という)は、罰則付きのルールです。「優しくなければ男じゃない」が戒、「暴行したら懲役3年」が学処です。

 ちなみに、これは部派仏教の話で、大乗仏教に律はありません。その意味において、大乗仏教の「教団」というものが存在したかというと、疑わしいとされています。初期の大乗仏教には律がなく、また、後の大乗仏教は結局、部派の教団の律を適用して授戒をするようになります。

 中国を経て日本に来た仏教も、もちろん律の存在は想定されていません。私もそうですが、日本で授戒というときは中国で撰述された『梵網経』を根拠とした「大乗戒」を受けることになります(最澄の尽力による)。一方で、上の戒と律の区別でいうと、これは戒に相当するものです。従って、いずれも「理念」であって、罰則付きのルールではないのです。第一、法令集にあたる律がないのですから、罰則を与える根拠も集団もありません。

 というわけで、外の人間が、「あの坊主、酒飲んでる」と指摘するのは、そもそもお門違いなのです。戒を受けた本人が、それを踏まえてどう生きていくかの問題なのです。

「唯識3年、倶舍8年」

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 冗談ではなく、伝統的に仏教学において「唯識3年、倶舍8年」(ゆいしき3年、くしゃ8年)というフレーズがあります。マスターするのに掛かる年数のこと。

 この土日は、久しぶりにドンペリ否ドップリと勉強しました。お相手は唯識。もちろん、かねてからカジッたことはありましたが、まともな学術書と格闘したのは始めてでした。残り2つとなったテキスト履修科目のレポートを書くべく、参考文献を読み始めたのです。

 唯識というのは、単純な構図でいうと、インド仏教思想が到達した頂点です。ゴータマ・ブッダ→小乗アビダルマ→初期大乗→中観→唯識と展開していきます。※その後に密教が続きますが、服部正明博士の言葉を借りれば「密教は成熟というより爛熟」、私もそう思います。

 唯識(vijJapti-mAtra)とは、簡単に言うと、「ただ(唯)、識別されたもの(表象)のみであり、外界は実在しない」ということです。

 よく使われるのが夢のたとえ。夢は、見ている間は現実だと思っている。しかし覚めてみると、さっきまで見ていたモノゴトは実在しない。我々が、現実であり実在していると思っているこの世界も同様に、本当は実在しないんだという思想です。我々が在るかのように認識している世界はなにごとかといえば、それは心(識)が描きあげた表象なのだ、と。では、識は、外界に実在する対象が無い中で、何を要因としてその表象を描くのかといえば、過去の行為経験の余力によってであるとされます。

 と、私が書くと安直なことになってしまいますが、3年かかる思想なんで、ソンナモンカと思わないでくださいね。

 彼らは「そんなカンジしねえ?」と言っているわけじゃなくて、外界実在論を説く学派(ミーマンサー学派やニヤーヤ学派、あるいは仏教の説一切有部など)と壮絶な論戦を繰り広げます。この土日に格闘したのは、ヴァスバンドゥ(世親)の『唯識二十論』、ディグナーガ(陳那)の『認識の対象の考察』あたりの話で、ここでは、「外界が実在している“必要性が無い”」ことを論証していきます。※もちろん原典を読んでいるわけはありません。アンチョコです。

 学生時代を振り返ると、中の上程度のオツムなので、3年かかるものが土日で分かるわけありません。分かる分からないはともかく、そもそも、あんまり好きじゃないんです。や、楽しいことは楽しいんですけど、疲れるんです、この手の話は。こういうのは上なオツムの人に任せて、私はもっと身の丈にあったことをしようと思います。

 が、やっぱり仏教哲学の頂点ですので、ちょっとばかり眺めてみることをお勧めします。

 また、この唯識は、中国・法相宗を経て日本・法相宗として奈良時代に輸入されます。つまり、インド仏教の到達点は、日本仏教の出発点になるのです。この唯識を、平安の天台(一乗)、真言(密教)が乗り越え、さらに鎌倉の禅と浄土が乗り越えていく。そういう構図を持っているのです。

 もちろん、唯識が劣っていたから乗り越えられた、という意味ではありません。これまたバックリ構図化すれば、インドの仏教は単純→複雑と展開し、その結果、破綻した(密教)。逆に日本の仏教は、複雑→単純と展開し、結果、今日まで続いている。そんな風に私は捉えています。

春、3月、涙、Dancing All Night

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 春・3月といえば、涙? サラリーマンなので「卒業」ってのは無いわけですが、金曜日に一人同僚を見送りました。

 エレベーターでお別れする際、彼女の目から涙が溢れた。短い期間で退職することになってしまった人で、長い間いてのお別れの涙とは違う、なんというか、無念さのような、そんな涙でした。4月までいてくれたら、私の部下になった人だったのです。オコガマシイけど、もう1か月遅かったら、なんとかできたかななんて思ったり、何もできなかった自分がちょっと淋しかった。エレベーターの扉が閉まり終わるまで頭を下げ、お別れしました。

 今夜は、たまたま世界フィギュアというのを観ました。浅田真央ちゃん、滑り終わった途端、涙が溢れ出た。まだ点数が出たわけでもない。リンクの上で泣き出した。強烈なプレッシャーの中、満足した滑りが出来たってことなんでしょう。

 うーん、そうね、涙が出るほどの「ワーク」をしてないですね、私。仕上がって涙が溢れ出る仕事、答案を書き終えて涙が溢れ出るテスト、涙が溢れ出るレポート… それくらいのことがあってもいい気がする。

 結局、自己ベストを記録した浅田真央ちゃんは、追い上げたものの2位。前日2位だった最終滑走の安藤美姫ちゃんが1位。彼女も優勝が決まった後に泣きじゃくったけど、インタビューが面白かった。「スケートのラウンジっていうサイトが励みになった」。ここのサイトのことだと思うけど、全国放送でそんなこと言ってしまったものだからただ今現在接続が困難。

 いつか、「ちゅうにょあんっていうサイトが励みになった」って誰か言ってくれないかな。そのためには、誰かを応援しよう。うーん、誰にしよう。最近、ダンディズムを感じたのは、イチロー(ネタ元「スタメン」)ともんたよしのり(ネタ元「リンカーン」)。ダッシンホールナイッ!

なんで仏教じゃないといけないのか

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 7行しかないYahoo! JAPANトップページのトピックス欄に、珍しく仏教の話題が2本同時に並んでいました。

保阪尚希が「出家」 仏門へ
修行中の僧侶 女子高生を買春

 前者は… 特にコメントは… 頑張ってください。仏教の道を歩む方が出るということは、仏教徒の端くれとして嬉しいことです。

 問題は後者。「欲望に負け」というイイワケにカチーンときた。さっきまで勝ってたみたいな言い方すんなや、と。

 仏教において、欲望が重大なテーマであることは確かです。原始仏典のsutta(経)では、しきりに欲望(とくに性欲と所有欲)が攻撃されている。その欲望を鎮めた状態が涅槃(nibbAna)です。

 ただ、問題、というか、私が言いたいのは、仏教は、あるいは仏教の修行は、「我慢くらべ」じゃないということ。

 我慢くらべの類は、仏教の登場を待たずとも、インドの修行者は昔からやっていた。身体と精神を二分して考えて、精神を高めるための精神統一、または身体を相対的に下げるための苦行、これによって「身体<精神」の状態に持っていった。

 仏教はそんなことは言ってない。仏教、あるいはゴータマ・ブッダのオリジナリティは、すべては無常であると言ったこと。

 Everything is changing. それが、ほんとうに分かったとき、自然と欲望も消えるというのが仏教のパラダイムのはず。「まことにそれ、無常を観ずるのときは、吾我の心おこらず、名利の念おこらず」(道元『学道用心集』)。

 私のように、なんもせんとゴチャゴチャ言ってる人間よりも、「型」を覚えていく中で仏教っぽくなっていくという方が好感が持てるでしょう。けれど、順番はともかく、最終的には理屈も考えないといけないと私は思うわけです。

 というのは、それを考えないと、「なんで仏教のなのか」の問いに答えられない。先の保阪尚希さんも、

「突っ張って生きてきたつもりでも、いろんな人に助けられてきた。1人で生きてきたんじゃない。周りの人のためになにかできるんじゃないか」と仏門を志すようになったという。

だそうで、それはそれで素晴らしいことだけど、なぜキリスト教じゃなく、なぜNPOじゃなく、なぜ仏教なのか、という問いにどう答えるのか。ご縁という一言で片付けてしまうのか。

 仏教は、欲望に勝った負けたの我慢くらべじゃない。ボランティアでもカウンセラーでもない。それが本日の戯言です。

仏教語35,000語を日本語入力システムにぶち込む方法

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 仏教を扱っていると、なかなか術語や固有名詞、文献名などを漢字変換してくれなくて困るものです。コツコツよく使うものを登録していたのですが、今日、会社帰りに道を歩いているとき、すごい技を思いついてしまいました。

 花園大学の国際禅学研究所が『織田仏教大辞典』の見出し語リストを公開しているのです(「辞書他」のところ)。そのことは前から知っていた。で、ひらめいたのは、これを日本語入力システム(IME)にぶち込んじゃえばいいんだ! ということ。
※ちなみに、同じく公開している『望月仏教大辞典』のリストには「よみ」がないので無理です。

 私は標準のMicrosft IMEですが、「よみ」「漢字」「品詞」のタブ区切りテキストを用意します。ダウンロードしたファイルは、「漢字」「よみ」… の順で並んでいるので入れ替えて、それ以降の列は削除、んで3列目はめんどくさいので「名詞」と書いて全行に貼り付けてしまえば完成です。この作業はExcelで行えます。

 で、「辞書ツール」の「テキストファイルから登録」でぶち込めば、あーら不思議、あっという間に35,477語が一撃で登録されます。
※もともと辞書に登録されていた単語は重複エラーで登録されませんが、それでも34,000語くらいが登録されます。

説一切有部毘奈耶雜事(せついっさいうぶびなやぞうじ)
阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん)
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)

 いや~、痛快な一発変換です。ぜひご利用ください。

 ちなみに、利用規定を読む限り、私的利用の範囲であれば、このような加工を行った用い方も問題ないようです。

麺飯食堂なかじま

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 火曜日は夜、渋谷へ。渋谷へ行ったら寄る「麺飯食堂なかじま」で、炒飯セット(900円)を食べました。週代りのチャーハンと小ラーメン(熟成塩ラーメン)。行きだした頃は空いていたのに、最近はずいぶんと混んでいる。またみんなに着いてこられちゃったな~、アンテナ合ってるな~ オレ、と自画自賛。

 それはそうと、本ブログは「大学で仏教学を学ぶIT企業サラリーマン兼仏教者のブログ」ということなんで、少しは仏教のことも書いていこうと思います。というわけで今日は「食」。

 インドの仏教修行者の食の大原則は乞食(こつじき/托鉢)です。人からもらったものを食べる、ということ。

 仏教の修行者のことを比丘(びく/原語bhikku)と呼びますが、比丘は修行形態の一つを指す名詞として仏教以前からあったようです。その意味は行乞食者。乞食を行う者を指す名詞を仏教の修行者に適用したということから、仏教における乞食という食形態の重要さが明らかだろうと思います。

 食については諸々細かいルールが設定されています。たとえば、食事は正午までに終えないといけません。正午を過ぎたら基本的には食べちゃいけない。

 修行者というと山里離れた森の中で暮らしているようにイメージするかもしれませんが、現実には、朝、乞食に出かけご飯をもらって、そして帰ってきて正午までに食べるわけで、そのためには、午前中のうちに村を往復できる程度の距離に住め、ということになっています。

 それから食といえば、肉食の問題。仏教=肉を食べないと思われたりします。けどそれは、どちらかといえば後世の大乗仏教諸国(日本を除く)で生まれた考え方。インドの比丘の原則は、人からもらったものを食べるということです。肉をもらった場合は、普通に食べます。但し、比丘はあくまでも世俗の人の余りものを食べることが原則ですので、比丘に施すためにわざわざ動物を殺してはいけないということになっていいます。

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注1 時代区分や文献の明示なく私が「インドの仏教」と言った場合、いわゆる原始仏典(経と律)を読んできた中で語っています。時代的には前4C~紀元前後ころのことと推定されます。

注2 ブログを書くためにわざわざ文献を読み返したり辞書を引いたり、あるいは前提や仮定、異論、異説を確認するほど律儀ではないです。私の記憶の限りで即興で書いています。細かいことはご了承ください。

注3 当たり前のことですが、私は「インドの仏教はこうでした」と言っているだけで、それが「正しい」とか「本来の姿だ」とか、そういうことは意図していません。インドはそうでした、という話から、何を感じ、何を考えるかは、個々人の問題です。

パスモ(PASMO)を買った

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 3/18?からスタートしたパスモ(PASMO)を買いました。このICカード一枚で、JR、私鉄、地下鉄、バスなど、いろいろ乗れるらしい。それは便利だ。

 そうそう、そもそも、いずれ物理的なお金(紙幣と硬貨)は無くなっちゃえばいいのに。銀行か郵便局にデータとしてのお金があるだけで、あとは免許証か携帯電話をIC端末としてかざして使うだけ。

 そうしたら、銀行強盗も無くなるんじゃないのかね? 「この携帯にデータを移せ!」という強盗口上になるのかもしれないけど、機械だから身元が割れる。盗難車ならぬ盗難携帯で強盗するのかもしれないから、端末にGPSでもつけておけば万全か。なんせ、紙幣や硬貨に替えられないんだから、その端末を手放すことはできない。財産隠しも、偽札とかも、なくなるでしょう。

 そんな時代が来るといいんだけどな。

昇進

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 傷心、否、昇進です。金曜日に勤め先で辞令が出て、4月から管理職の末席に加わることになりました。

 曲がりなりにも、人の目標を設定して評価したり、昇給の申請をしたりする立場だそうなんで、いっそう適切にお仕事に就こうと思いますね。

 小泉前首相が、靖国参拝のときだったかな、「適切に判断する」という表現を連発していたことがあります。私も仕事で、使わせてもらうときがあります。政策のことを云々するほどの知見はありませんが、小泉純一郎氏の言動にはいろいろ学ぶことがあります。

 信念を貫くにはときに非情さも必要であること。あるいは、彼が秘書官に吐く言葉は3つだったそう。「で、結論は?」「任せた」「関係ない」。どれもいい言葉です。とくに、「関係ない」はよく使いますね、私も。関係ないことだらけです。

私は人を見下しているか

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 芯の通ったコメントを頂いたので、私も真面目にお答えします。

 「あなたは人を見下している」という言い方は昔からされます(笑) 笑いごとじゃないかもしれませんが、小学生のころから言われているかもしれませんね。

 見下すという以上は、「他人と違う」と自分では思っているわけでしょうから、それによって「自己肯定をめぐる闘争」をしているという話もよくわかります。「他人と違うと思うことによって自己肯定をする」ことについては人間の性(さが)だろうと思いますね。共産主義がうまくいかない所以でしょう。違いによって自分が浮かび上がってくる。

 で、私が人を見下しているかどうかですけど、私自身にもちろんそのつもりはないですよ。というか、人を見下したり見上げたりするほど、人に関心がありません。

 親しくお付き合いしている人は分かると思いますが、言葉は厳しいし、思ったことは言いますよ。けど、「○○を憎んで人を憎まず」みたいなことで、プライベートでも仕事でも、ある「現象」についてモノを言っているだけで、「その人そのもの」を憎んだり見下したり毛嫌いするようなことはありません。現象を離れたその人そのもの、はよくわかりません。なので、私は人を嫌いになることはほとんどありません。3000人くらいいる会社の中で、苦手な人が1人いるくらい。私を嫌いな人はたくさんいるかもしれませんけどね。

 何にしても、最終的に、お前のことがイケスカンという人は、それはそれで仕方がないことです。そんなことは今までもありましたし。私の失いたくない人を失うかもしれませんけど、それも、仕方のないことです。そんなこともまた昔からありましたし。

 常識的には人を見下す人がしないようなこともいくつかしていますし、今後もしたいことがたくさんありますが、そういうことをしてると言うとまた優越感に浸っていると突っ込まれたりして堂々巡りになるので、よう言いません(たとえば慈善事業とか)。

 もともと「ポピュラー」になろうと思って生きているわけではないので、一人の善き師、一人の善き友、(まだ見ぬ)一人の善き女性(ひと)、それくらいいて、あとは、そこそこ充実して仕事して、そこそこ充実して生活していればそれで十分で、それ以外のことは、あまり関係のないことなんです。

 人並みに世界のみんなの幸せは願っているけど、世界のみんなが私をどう思っているかは人一倍興味がない。そんなことよりも、自分自身のことと、大好きなアノ娘のことで精一杯。そんなところです。

 お会いする機会がありましたら、ぜひお気軽にお声お掛けください。

ブログ改装、サーバー移転

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 少しホンキを出してブログを改装してみた。

 広告をペタペタ貼りつつ(サーバー台+αくらいは回収を)、見やすくしてみたつもり。それからいわゆるSEO対策にも凝った。そもそもどういうキーワードで検索されたいのかが不明確なままSEOというのも難だけど…。ちなみに「南直哉」で検索するとただ今現在2番目に表示される。

 ついでにサーバーを移転した。投稿数が700超くらいになって、どうも「ロリポップ」ロリポップでは再構築に時間がかかるので、同じ会社の一つ上位の「チカッパ」チカッパに。

 よく、レンタルサーバーで何千円もするのを借りる人がいるけど、趣味はもちろん、商売でも単なる会社紹介ページを置く程度なら、ロリポップ(250円)とかチカッパ(500円)で十分。

 ドメインも、ムームードメインムームードメインで、gLTD(.com、.net、.orgなど)なら770円、汎用jp(.jp)でも3,510円で取れる。

 と、あまりライバルの一つなんであろう会社を紹介するのも気が引けますけど、背に腹は変えられない一個人としては、仕方ありません。がんばるのだ。>隣の席のY君

原点

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 昨日は、南師の「仏教・私流」でした。講義という形で師の話を聞くのは実に2年ぶりくらいですが、変わらず「節」全開。次回は、

 4月6日(金) 18:30- 豊川稲荷東京別院

です。

 師はもとより、久しぶりに、板倉師や田中師ら、諸先輩方にお目にかかれたことが嬉しかったですね。よく、板倉師の警策(坐禅中にバシッとシバカれるやつ)を進んで受けたものです(Mだからじゃなく)。事釈((身体で)出来事として覚えていくこと/cf.理釈)で仏教を教えて頂いた方々です。

 昨日の南師の言葉の中から一つ選び取れば、

「救われようという思いを断念させる宗教」

 それが仏教。私もそう思います、というか、そういうものとして私は仏教に親しんできた。

 真実の自己、ブラフマン、アートマン、一者、イデア、神、(本覚思想的)仏性…、あるいは富、ブランド、地位・名誉、なんでもいいのですが、そういうものを立てて「自己肯定をめぐる闘争」を続けているうちはどれも一緒。

 救われようという思いを断念し、それでもなお生きていく力を養うこと。それが、私にとっての仏教。原点です。

よく寝たSunday

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2007031201 今日(日曜日)は、なんだかよく寝ました。17時ころに吉野家に牛丼を食べ行った以外は、ほとんど寝ていた。23時ころから洗濯を始めて今(24:30くらい)に至ります。

 昨晩は、ロンドンの Pali Text Society から、ようやく Vinaya Pitaka の原典が到着したこともあって、本棚を整理しました。本棚の上で寝ている猫。落ちないように。

 さて、明日は南直哉師の「仏教・私流」です。皆さまお誘い合わせの上、どうぞお越しください。


777円

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 仕事の帰り道、ローソンに寄り、おにぎり、チーズフランク、マイルドセブンワン・ロング、ダイエット・コーク、プリン、を買ったら、777円でした。私が店員なら、「777円、大当たりでございます」とでも言いたいものだけど、言ってくれなかった。

 本日はこれにて。

ワンセグ

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 すこし前のことになりますが、携帯電話を2年弱ぶりに変えました。ドコモが満を持して投入したらしいSH903iTV

 そう、テレビが見られます。あと、フルブラウザも使えます。どんどん便利になっていきますね~。

 そうそう、たまに、便利になっていく世の中を「止めよう」と企む人がいます。

 この間も mixi 内で、ニンテンドーDS で英語(TOEIC)の勉強をすることを否定する人がいました。曰く、「考えが甘い」んだそうです。科学的にニンテンドーDSでは英語の成績が伸びないというデータを持ってくるなら興味深いものですが、そうではなくって勉強「道」みたいな話。ぜんぜんお話になりません。

 論文はワープロなど使わずに一筆入魂で書くべきだ、というような先生も未だにいるんでしょうか!? 一筆入魂ったって、所詮どこかで買ってきたペンで書くわけですよね。せめて自分で動物を狩りに行って筆を作って、木炭から墨を作るくらいのことをして欲しい。東急ハンズで売ってるペンは良くて、ビックカメラで売ってるパソコンで書くのはいけない意味がわからない。

 時代の流れに逆らおうとする人は、ぜったいにうまく行かない。99.999%の人は、時代の流れに逆らえるほど賢く出来ていない。その理解が足りない。時代の流れをどう利用するかを考えないとダメだと思いますよ。

 尤も、そういう時代の流れが、良い方向なのか悪い方向なのかは別問題ですが、ただし、そんなことは、考えても意味のないこと。ものごとは変わるのです。廃れるものは廃れるべくして廃れる。生まれるものは生まれるべくして生まれる。100年後の天気を当てるような、到底己の頭脳で出来ないことはしないほうがいい。変化して変化して変化して、そしていつしか太陽が爆発して人類は滅びる。ただそれだけのことで、たいした問題ではありません。

格差社会ってステキヤン

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 今日は行きつけのマッサージ店に。もう5年くらい、いつもやってもらってるオネエさま。

 互いの出自も知っているので素でいつも話しているけど、今日は、「東京はいい街だ」と私が言い出した。そう、四国以外はほとんど行ったけど、結局、「東京はいい街だ」という結論に達した。んで、その理由も私なりに出た。「東京には夢がある」んです。

 あっちこちから出てきた人がドリームを手に入れている。我が指で人肌を圧すること一つで生きているこのオネエさまもそうだし、帰りにいつも寄るラーメン屋のお兄ちゃんも。きっと、田舎にいたら埋没していたであろう才能が、東京では輝いている。

 ドリームっていうのは、富を手に入れるということじゃない。好きなことをやるっていうこと。東京は、好きなことをやれる土壌がある。

 んで、翻って、昨今話題の「格差社会」ということも考えた。私、何が問題なのかさっぱり分からない。

 憲法25条に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と書いてある。憲法に書いてあるんだから実現されるべきである。これを具現化しているのが生活保護法だけど、従って、生活保護の受給対象や受給額については、それがすべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を与えているのかということを、よく検討して、必要であれば改めたほうがいい。

 ただ、その最低限度を超えた人においては、年収200万円の人と何千万円もある人の差が出ることは、まったくもって仕方がないでしょう。小泉のオッサンが言っていたけど、民主・小沢の言っていることは社会主義の寝言。私もそう思う。

 私は、格差社会ってステキヤンとさえ思う。格差があるということは、多様であるということ。選択肢があって、可能性が溢れているということ。

 「お金がすべてじゃない」なんてことは当たり前。お金持ちになりたい人はなればいいし、別のことに関心を持つ人はそれでいい。そうやって、一人一人が自分の人生を選択していった結果、そこに格差が生まれるだけの話で、それでいいじゃん、否、それってステキなことじゃんということです。

 もちろん中には、そんな「選択」などというレベルではなくて、能力が無く、貧しい生活をする人もいるでしょう。けれど、それはね、仕方ないよ。学校でも、ツッパリなわけでもなく、普通なクセに、異様に勉強できない子っていたでしょう。それに合わせてたらみんながバカになるだけですわ。生活保護法によって、健康で文化的な最低限度の生活は保障される前提で、それ以上は、自分の力で上がってこないと。

 100円を手に入れるために缶を集めているオジサン。そのすぐ脇で、何十万の電化製品を買っていく人々。渋谷なんかを歩いているとそういう光景をよく目にする。けれどね、オジサンよ、そうなりたかったら這い上がってくるしかない。なりたくなければ、それでいいし、誰にも文句言われることじゃない。

 格差ってのは、自由の結果でしょ。格差のない社会なんて、気持ちが悪い。

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