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めざせ、TOEIC 700点
9月4日(月)に、TOEICを受ける予定です。
前回、5月、実に6年ぶりに受け、1か月間の対策勉強により、6年前の525点→680点となりました。今回はめざせ700点なのですが、今ひとつ勉強が進んでいません。落ちてしまうかもしれません。
明日から9月ですか~。早いですね~。10日-20日が、論文テーマ予備調査票の提出期間です。そろそろ詰めていかなきゃいけませんね。
福岡、3児死亡事故
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/drunk_driving/?1156738584
私も6月に福岡に行った時に通った「海の中道」で、飲酒運転の車が前の車に追突、追突された車は海に。3人の子どもが車内に残され沈んでいく。両親は、海に潜って2人を車外に出したが、1人は助けられなかった。しかし、車外に出すことのできた2人も含めて、3人の子ども全員が亡くなってしまった。
いや~、厳しい、切ない、事故ですねえ。
当時、救助にあたっていた福岡海上保安部(?)に、容疑者の父がいたそう。まさか我が息子が起した事故とは思わずに必死に救助活動をしていた。これまた切ない。※一度だけテレビで聞きましたがネット上にソースが見つかりませんので間違っていたらご了承を。
あの信号で止まっていなければ…、あと30秒早く出ていれば… 仮にぶつかったとしても、海の中道でぶつからなければこうはならなかったかもしれない。いろんなことが想像できます。
神は、神に似せて人間を作ったんだそう。であれば、基本的に、神と人間の善悪や幸不幸のベクトルは近いものじゃないんでしょうか。なんでこんなにことになってしまうんでしょう。
私は仏教者として当然無神論者で、♪神なんて~ いわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪としか思っていませんが、いるとしたら相当にタチ悪いですね、神さん。出てきたら尾てい骨の先っぽの部分をおもっきり蹴り上げてやります。
「パーリ語入門」、1日目
今日は会社を休んで東方学院「パーリ語入門」の1日目でした。土日あわせて3日間、計15時間の集中講座です。
感想としては、サンスクリット(skt.)よりも、読めている感があります。skt.が一人の文法家(パーニニ)によって完成され、変化を拒んだ文語であるのに対して、俗語として今も用いられているパーリ語は、発音もし易い印象です。
服部育郎先生は、水野弘元『パーリ語文法』をもとにしつつも、独自のレジュメを大量に事前に配布してくれました。
skt.も含め、伝統的な文法書の学習順序は、名詞・形容詞、代名詞、動詞… と進んでいく。名詞・形容詞の活用だけで、延々と授業が続きます。これを改めて、動詞からやるべきだという声を何度か聞いたことがあります。
服部先生は、動詞、名詞を織り交ぜながら、スパイラルに伸ばしていく方法を採っています。動詞-現在形とa語幹男性名詞-Nominativeで文章を読んでいって、次に動詞アオリスト(過去形)と男性名詞-AccusativeとInstrumentalを加えて… といった具合に、動詞、名詞の双方を一段階ずつ上りながら進めていく。
確かに、動詞をやると「読んでいる感」があります。
パーリ語(skt.も)の動詞は、語尾変化だけで人称、時制、数(単複)を表すので、「passati」(三人称・単数・現在)の1語だけで「彼は見る」という意味になる。彼って誰よ? → samano passati.(沙門は見る)、何を見てるのよ? → samano passati buddhaM.(沙門は仏陀を見る)と、動詞を中心に置いて、より具体化していくための肉付けとして前後に言葉が置かれていくと考えると、リアリティが沸いてきます。
skt.よりSandhiが少ないそうなことも嬉しいのですが、その一方で、俗語だけに活用や例外はskt.より多いんだそう。辞書とかリーダーとかもいろいろ教えて頂けるので、地道にやっていきましょ。
坂東眞砂子
直木賞作家・坂東眞砂子のエッセイが話題になっている。要するにこういう話です。
愛玩動物として獣を飼うことや、避妊手術をすることは、人間のわがままである。子種を殺す(避妊)ことと、できた子を殺すことはたいして違わない。私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
ごちゃごちゃ言っていますが、所詮、ことの発端は「避妊はカワイソウ」という程度の話に決まっている。最初から上の理屈を思いついていたら、ペットとして飼うことを始めるわけがない。「避妊はカワイソウ」論を補強する「ネコに聞いたら嫌がる」「人間が動物を操作している」といった程度の理由付けも誰でも思いつく。だったら、今すぐ自然に解放してあげればいいだけの話です。
「避妊はカワイソウ」だけど「ペットとして飼っていたい」の矛盾を調整して、ペアで飼って計画的に年に1~2度生ませて、しっかりと里親を見つけている飼い主はいくらでもいる。私のネコの親元もそうです(普通のサラリーマン夫婦のブリーダー)。坂東ちゃんはそれすらできない。
その挙句に、「ネコは避妊は嫌がるが、子を殺されることは嫌がらない。」、「自分が育てた猫は捨てられないけど、子は捨てても構わない。」という大胆な仮説、思想を持ってして、「社会に対する責任」を果たしているのだそう。
ちょっと、お話にならない。
ペットを飼うことが人間の娯楽であることは間違いありません。避妊も、ヒート(発情)が邪魔くさい、産まれても育てられない、という人間の都合であることは明らかです。これら全部認めた上で、「我、愚鈍、愚劣故、自己満足をしている」というのが私の立場です。
ペットを飼うことに焦点を絞るまでもなく、人間のやっていることはそんなことだらけなんです。そもそもの自省がないから、氷山の一角を取り出して、「私気づいたの!」みたいなことを言いだす。
語るに及ばず、目を留める必要もないションベンエッセイで、この程度の仕事で「作家」を名乗るとはお笑いです。まぁ、ただの売名行為なんでしょう。一番見識を疑われるのは日本経済新聞社です。
さらば夏よ
昨日、遅ればせながら、サザンオールスターズの52ndシングル「DIRTY OLD MAN~さらば夏よ~」を買いました。
「日本列島 来週には秋の気配も」だそうです。さらば夏よ… って、別に私は夏に思い入れはありません(笑) 夏か冬どっちが好きかといえば冬です。けどあれですね、四季がある前提で夏より冬がいいだけで、常夏と常冬どっちか選べといわれればさすがに常夏です。夜が好きだと言っても、朝が来る夜が好きなだけで、朝の来ない夜は勘弁して頂きたい。
サザンといえば、日曜日の夜、「音楽寅さん」がやっていました。桑田佳祐、50歳。あいかわらずカッコよかったですね~。Youtubeに、むか~しの桑田さんの映像があります。「いとしのエリー」のオンタイムなころですかね。決してハンサムではないけど、艶気のある兄ちゃんです。このときから今日まで、音楽一筋25年強。彼が紡ぎだすメロディーとコトバに、多くの人が酔いしれてきた。こういう人がほんとの「選ばれし人」なんでしょう。商人なんてしょせんドングリの背比べ。
今週末は、浜名湖でサザンが登場する『THE 夢人島 Fes.2006』があります。オークションで落札して行ってやろうかと思っていたのですが、週末はダメでした。
金曜日会社を休み、金土日の3日間、10:30-16:30で東方学院にて「パーリ語入門」の集中講義でした。私の専攻は、サンスクリットではなくパーリ文献になりますので、ココは外せません。
今夏、最後の週末はパーリ語という、随分とシブイことになりますが、これはこれで、I'm okay!
「忠如庵佛書林」を開店しました
オンライン仏教書メガストアをオープンしました!
amazonの「インスタントストア(TM)」を使って作っただけですが(笑) まだβサービスのようで、「カスタマイズ」ってそういうことじゃないと思うんだけどな~ と思うことなども多々あります。
ネタが続く限り、週一回、トップページの特集を更新していこうと思います。仏教書を購入される場合はどうぞご利用頂きますと、その何%かが私の収益となり、私の勉学の足しになりますので助かります。
俺の中の仏教を、ぼっ壊してみたい~
六本木ヒルズに青山ブックセンターがオープン。なかなか良いセンスでした。
ビジネスとか経済とか「ナンセンス」な本が多くを占めていた有憐堂に対して、「文化人類学」「思想」「脳」等、「ハイセンス」な棚が用意されていた。なぜか『エリアーデ仏教辞典』が置いてあったり。
「脳」コーナーで少々立ち止まってしまいました。学問的に専攻することを仏教「史」にしたことだし、私の中にある仏教「思想」なり「信仰」なりを創造的に破壊してやろうと、最近、「科学的なこと」にも関心を寄せています。
歴史的に、仏教哲学のゴールは唯識(ゆいしき)です。「唯(た)だ識のみ」ということで、要するに、唯心論に限りなく近い。現象界とは、真実には何も無くて、単に識(心)が作り出した幻影である、ということです。
唯識とともに大乗仏教哲学の双璧を成す中観(ちゅうがん)は、少なくとも「なにか」の実在は想定した上で(漢語「諸法実相」)、その「なにか」がかくのごとくに存在するのは縁起である、という考え方です。すべてのものごとは縁起的に仮に在るのであって、原因や条件を離れて実体的に独立自存するものはなく(無我)、そのような実体の無い在りようを「空」と呼ぶのです。
この二つの仏教哲学は、歴史的には中観→唯識と発展していきます。私は、中観はよく納得できるのですが、唯識まで行くと理解し得ません。近々、惑星に追加されると議論されている「セレス」や「カロン」なんかも、心が創り出した幻影だというのです。私の理解の及ばぬところです。
さて、それで「脳」。昨今、脳科学といえば茂木健一郎さんが有名です。茂木さんの本を立ち読みしたところによると、唯識的な[←茂木さんではなく私の理解]、「世界=自分」といったような思想は、昔から先鋭な若者たちや哲学者たちを魅了してきたんだそうです。自分が認識し得ないことは存在しないに等しい、自分が死んだら世界は終わる、というような考え方です。
その対極にあるのが科学です。宇宙も地球もなにもかも、人間とは無関係に客観的に独立自存するという前提に立ちます。人間も宇宙における物質の一つに過ぎず、愛だの希望だの悲しみだのは単なる脳細胞の反応だということになります。
茂木さんは物理学者ですのであくまで科学的立場に立った上で、今まであまり科学が扱ってこなかった「主体性」「自意識」といったようなテーマについて平易に書いておられる。
科学をカジリ、私の仏教思想をぼっ壊してみようと思います。自分の中にどんどん爆弾を打ち込んで、それでも這い上がってくるものは何なのか、スクラップアンドビルドしてみようと思います。オナニー仏教徒にはなりたくないんで。
野球少年だった私
高校野球、終わりましたね~。前日、15回引き分け延長再試合。そして今日、9回2アウト、駒苫の打席はエース田中くん。投げ合ってきた両チームのエースが、最後、打席とマウンドで勝負とは、真実は小説よりも奇なりです。
私、そういえば、野球少年でした。小さいころの写真といえば野球をしている写真ばっかり。小学校4年だったかな、ちょうど当時できた地元の野球チームに入って、4年生でピッチャー、5年生で内野、6年生でベンチ入り(笑)
小さいころから、暇さえありゃ壁にボールをぶつけていました。あるいは、家の前の路地の端から、ティートスしてカキーンと打つ。んで、てくてくボールを取りに行って、また反対側を向いてティートスでカキーン。何往復も日が落ちるまでやっていました。
けれど、よーく覚えていることがあります。5年生のころ、サードを守っているとき、少年野球では「バッチコーイ!」と声を出します。「俺んとこにボール飛んで来いや」という掛け声です。
私も慣例にならって声を出していましたが、ふと、本心に気づきました。「俺のところに来て欲しくないな~」(笑) あっちいけボール。セカンドがいいな~と思ったり、左バッターになるとちょっと気が楽になったり。 (「流し打ち」よりも「引っ張る」可能性の方が高いですから、右バッターはレフト方向、左バッターはライト方向に球がいきやすい)
あるいは、9回2アウト、1点負けていて1打同点のチャンスみたいなときに、ネクストバッターズサークルで待っていると、「俺の前で終われ!」と思っていた私(笑) 回ってきちゃったりすると、「無理無理無理無理 え~ うそーん 記念に代打出しあげてよ、コーチ」です。
そのとき、「あ~俺には無理だな~」と思い、そして6年でベンチを暖め、小学校卒業と同時に野球も卒業したのでした。
週末ダダダダダラ~
金曜夜は、フリータイムでの初ツーショット。何を言っているんでしょう。あんまり書けません。
土曜日は、相変わらず『インド仏教変移論』。これはこれでWowWowWowなんですよ。ごく一部の先生向け発言ですが、2章(Schism Edictと『摩訶僧祇律』の対応)、3章(saMghabheda概念の変遷)、4章(『摩訶僧祇律』犍度部が羯磨を重視した特異な構造であること)、それぞれ各論は感動だったのですが、4章を以って2章と3章を連結させるところは今ひとつ納得し切れていません。続きがまだありますし、もう少し考えてみます。
深夜は、Tが来訪。もちろんヘンなことはありません。普通に、恋だの仕事だの人生だの、語り明かし。「カンちゃんて、ほんとに何も求めない人だよね~」ですって。そうですかね!? 無理にそうしているつもりはありませんが、うーん、まぁ、「無常」ということが私なりに染みているつもりですから、極端に何かに執着することはあまりないかもしれません。「欲望」はありますよ。ただ、別に、叶わなければ叶わないで、まぁ、別に、いいや、みたいなところです。恋的なことでいえば、少なくとも去る者を追うことはなくなりましたね。なにごとも、過ぎ去るものです。一つの対象に執着しなくとも、また次の欲望が出てきますし。それはそれで。
日曜日はちょっくらお台場に行って、フジテレビの丸い玉を見上げて来ました。
春期スクーリング、90点&80点
春期スクーリングのレポート評価(点数)が出ていました。
仏教学ゼミ3の「ゴータマ・ブッダの生涯」が90点、仏教文献研究3の「『大乗起信論』のアーラヤ識」が80点。90点は、専攻科目での最高得点更新です、パチパチ。『大乗起信論』の80点は?なのですが、私、時代が遡るほど点数が良く、下ると点数が下がるという現象が顕著です。
日本仏教なんて74点と80点。インド仏教になると平均点で85.5点。釈尊(90点)、律関係(84点、88点)、中観関係(86点、85点)あたりが高い点。同じインドでも唯識以降の『大乗起信論』になると80点にしっかり落ちている。
夏期スクーリングの4本のレポートの評価待ちですが、さてどうでしょう。ちょっと、明らかに1本、最近の学習結果によると間違えたことを書いているものがあります(笑) 調子に乗るもんじゃありません。
全16科目 84.1(77-100)
-専門科目9科目 82.4(74-90)
--インド7科目 85.5(80-90)
本の紹介、3つばかり
○安河内哲也 『安河内の英語魂』 ダイヤモンド社、2006年
高校時代の恩師、今でも英語のことになると相談をする安河内先生の新刊。高校生向けなので買っていませんが、高校生諸君! あるいは高校生の子を持つ方は是非。安河内先生は、私の六大恩人の一人です。
○岡本真 『これからホームページをつくる研究者のために』 築地書館、2006年
会社の先輩の著です。インターネット黎明期から、インターネットの学術利用に関するサイト「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」を運営する著者。
今日、直接購入したばかりなので未だ読んでいませんが、研究者がウェブで情報を整理、発信していくためのテクニックが、豊富な実例をもとに紹介されています。
分野にもよるのでしょうが、例えば仏教学などという学問では、なかなか体系立ててウェブサイトを開設されている研究者は少ないように思います。(単に個人の信仰を表明している類のサイトは除きます。人文科学系列の学問として、です。)
私は、人さまに発信するようなことを書ける能力はありませんので、発信のためというよりは、学術的情報を整理していくヒントが、何かしら記されていれば幸いです。
ちょうど先日もそんなことを試行錯誤していました。大蔵経テキストデータベースから、『摩訶僧祇律』を1行1レコードとして Microsoft Acccess に取り込んで、各行ごとに、自分なりの訳や先行研究書で読んでいったポイントを記していくようなことを考えていました。文献学という研究対象がはっきりしている学問ですから、文献に対して情報を整理していく方法を考えることになります。
大学の先生も何人かこのサイトを見ているように思いますが、ぜひともホームページをつくってください。
○佐々木閑 『インド仏教変移論』 大蔵出版、2000年
梗概を作りながら精読しています。少々お高い本ですが(8,400円)、「仏教の多様化、多様性」といったあたりに関心のある方はぜひとも読んでみて頂きたい本です。といっても、学位(博士)請求論文をベースとした本なので、まったくもって純アカデミックな本ですから、「仏教の寛容性」とか「和の精神」とかいったような類の話ではありませんのでお間違いなきように。
仏教史の研究とは、ほんとうにミステリー小説のようなものです。文献や、あるいは本書でいえばアショーカ王碑(石碑です)を駆使して、一つ一つ事実を明らかにしていきながら、事実同士を繋げていく…。エレガントです。本書で佐々木先生も触れていますが、論理が明快であってはじめて、議論・反論も点のレベルで行える。単に、都合のいい部分だけを拾ってきて、「~ではなかろうか」「~に違いない」で終わってしまうような話は、「そうですか、よかったですね。そういう考え方もあるでしょうね。」で終わってしまう。そういうことじゃない、研究は。
本論のみならず、所々に現れる研究方法、方針など、後学の者にはためになる話が多々あります。今はこの本を読み進めることが楽しくて、どうなんねやろ、どうなんねやろの「トゥエンティーフォー」現象に陥っています。いつか私もこんな文章が書けるといいですね。
終戦記念日、ですね

(写真は「宮武甫・松本榮一写真展─被爆直後のヒロシマを撮る」より)
61年前、都市の空から爆弾が振り、広島、長崎には原子爆弾が炸裂、沖縄では地上戦が展開され、そして1945年8月15日、ほとんどの日本人はラジオ越しに天皇の肉声を始めて聞いた。終戦です。
私はアメリカという国が嫌いである。民間誤爆もいいところ、老若男女の上から原子爆弾を投下した国である。心から友だちになることはできない。現代、彼らに学ぶことは多くあるが、その三分の一は反面教師としてだと思っている。
一方で、それと同じような思いを日本はアジア諸国に行ってきた。日本仏教界も全面的荷担をして侵略の正当化に努めた。アジアの人が日本人に対して持つ、「許そう、でも忘れない」という詞がある。私がアメリカに対して持つのと同じように、彼らも日本の「過去」を忘れてはくれないだろう。それは仕方ない。
日本は、加害者としても被害者としても、戦争の悲惨さをよく知っている国だろう。人類史上、未だに唯一の被爆国である。そんな国として、もっと違った形での「国際貢献」ができるだろうと思… っていた。
1年前、同じようなことを書いた。途中、「大東亜共栄圏」構想を一部認めるという言い方は問題があるかもしれない。先日、某先輩知識人から、「神田くんのような知識人がそういうことを言っちゃいかんなぁ」と皮肉られた。「6.8対3.2で左翼」と自認する私の不徳の致すところだろう(右的側面も持っている)。ちなみに、2年前はこんなことを書いていた。
それはともかく、いずれにしてもしばらく前までは、「違った形での国際貢献」のようなことを私は言っていた。
しかし、人類はそう賢くないことをやっと理解した。イスラエル(ユダヤ人)。彼らは、民族の悲哀を一番知っている民ではないのか。それが今、この有り様である。
人間は要するにマヌケだった。国務長官であろうが、総理大臣だろうが、大統領だろうが、戦争を遂行している時点で、みんなトンマである。ハーバード大学を出ていようが、東京大学を出ていようが、なにも勉強していなかったということに等しい。
一人一人の人間はいいやつもいるんだけども、「人類」という括りで見れば、要するにアホだ、と私は結論付けた。
私は、私の大切なものと向かい合って生きて行く。戦争大好き Human being はご自由にどうぞ。私はこの写真のようには死にたくないし、誰かをこんな目に合わせたくもない。身の回りで戦争が起きたら、逃げ、隠れる。捕まえられて戦わなきゃいけなくなったら、一足お先に極楽浄土におさらばさせていただく。
8.15、靖国参拝
小泉はん、ご苦労様です。
靖国参拝問題は、政教分離の問題、戦犯合祀の問題など、いくつかの論点が在るので、私には語るほどの能力、労力がありません。
ただ、結論としては、靖国参拝は不適切でしょう。
「私人として」と言うのであれば、きっとこれまでもずっと参拝してきたんだろうし、総理大臣や政治家を辞めた後も、ずっと一靖国神社の信徒として生涯参拝してくださいね。
まー、しかし。A級戦犯の孫みたいなもんがテレビに出てきて、ぎゃーぎゃー言ってるのみると薄ら寒い。いつまでそのネタで飯食うんでしょう。
この件に限らず、老人が自分の歩んできた道を正当化するためにいたずらに言論を展開するのを見ると、人間の「なれの果て」を見るようで哀れに思います。
必要のある思想、文化、伝統は選び取られ、必要なないものは廃れていく。そうやって数百万年、人類が選択をしてきた結果が今日の文明です。
評価は、後世の歴史が下します。いい歳とったら四の五の言わずに、後輩を温かく見守る老人になりたいものです、私は。
停電直撃
しました。
朝8時、6時にネコの餌で起こされた時につけたはずのテレビがついていない。エアコンもつかない。ブレーカーよーし、なぜつかない? 電気料金払っていないか? と思う。
外に出るとエレベータも止まっている。このビルが壊れたか? と思う。10階から階段で下りる。1Fのコンビニは電気が消えた中で営業している。ちょっと歩くと信号が消えていて、お巡りさんが手信号で整理している。爆弾落ちたか? と思う。
六本木ヒルズも止まれ! 会社休みになれ! と思いつつ、定刻通りシャワーを浴びてると、シャワールームに灯りが…。8時40分くらいに復旧してしまいました。
しっかしまぁ、電気が止まると困りますねえ。熱いし、冷蔵庫の中心配だし、ノートパソコンでネットに繋ごうにもルーター止まってるし…。
インターネットもユーザーレベルでは結局電気に依存しているんで、テレビが死んでいるのにネットが生きているということはあまり無いように思いますね。
やっぱり頼みの綱は携帯電話です。エレベーターに閉じ込められても、携帯があれば連絡できる。私はけっこう電池切れをやらかすのですが、避けなければなりません。
シングルベッドで夢とお前抱いてた頃…
金曜日、そこそこ有名だそうな社長の下(別れたらしいですが)、月に100万の小遣いを持つTと、日本橋の「天香回味」という店に行きました。薬膳火鍋専門店とのこと。健康に良さそうなものを食べました。喫茶店の後、カラオケへ。
シャ乱Qの「シングルベッド」が流れていて、「大好きだった」とTが言うので、歌いました。
クソ田舎の上京娘だったころから、かれこれ6年くらいの付き合いになりますが、今までのカラオケの中で一番良いと絶賛。シメでもう一回歌ってねとのこと。なんでも、昔のつんく♂は好きだったそうで、「本人が出てればいいのにね」と言うT(カラオケの本人出演映像ってやつですね)。
さてシメ、「それでは、違うバージョンで歌わせて頂きます」… 自身満々にはじめる私。「えー、普通のでいいのに」とT(テクノバージョンとかくだらないバージョンがあるので)。「これを見ても、ほんとにそうでしょうか」と私。前奏、壁に斜めにピンで刺されたスナップ写真がアップになる。そこに浮かび上がるのは… シャ乱Q。「えー」、凍りつくT。
途中で本人映像版があることを知ったのですが、内緒にしていました。なかなかいなせな演出でした。
歌の途中、なんかちょっと挿入詞的な部分があるんです。そこよく知らんので、Tに歌わせました。本気で歌うT。「抱ける!」と思ったに違いありません(冗談です)。
シングルベッドで夢とお前抱いてた頃 くだらないことだって二人で笑えたね
つんく♂、なかなか洒落た詞を書くものです。
そんなつんく♂くん、先日、結婚式を京都の西本願寺で挙げたそうです。浄土真宗の信徒なんですって。ただの成り上がりかと思っていましたが、意外に、変な趣味あるんですね。いいやつじゃないですか。
【まじめにエッセイ】1.私にとっての信仰
韓国発の新興宗教団体「摂理」が社会問題になっている。このような宗教問題のニュースを見るたびに、「何故こんなところに入るんだろ?」と首を傾げる。
私のようなことをしていると、「仏教を信仰しているんでしょ?」と問われることがある。小一時間欲しいところだが、面倒なので「イエス」と即答するようにしている。けれど、「イエス」で間違いはない。私は私なりの信仰を持っている。世界観としての空=無自性縁起説が基本であるが、その一方、救済の側面の仏教も一定程度採り入れている。『法華経』然り、阿弥陀信仰然り。
私は宗教団体には属していないし、今後も、出家するということ以外では、属すことはないと思う。勧誘を受ければ、絶縁することこそあれ、共感を示したことはただの一秒もない。宗教団体の信者として活動することは生涯ないと思われる。
同じように宗教に理解を示すのに、私と、社会問題になってしまうような信者の違いは何なのだろうかと考えを巡らせてみた。辿りついた一つの結論は、私は自分の信仰が「真理」であるなどとは微塵も思っていないということである。真理と信仰はイコールでないどころか、まったく矛盾するものとさえ思っている。そこに違いがあるのだろう。
私の脳みそを紐解いてみると、元来は近代科学の申し子のような思考をしている。幽霊、心霊写真、細木数子、江原啓之、星占い、四柱推命、タロット… 何から何までまったくの嘘っぱちとしか思っていない。墓参り、初詣、除夜の鐘、通夜・告別式、先祖の仏壇に手を合わせる、事故現場に花を手向ける… 社交辞令としては適度にやるが、まったく無意味なことだと心底思っている。幼少のころからずっと。
このような、科学的合理主義だけで生きていける人もいるだろう。しかし、私はそこまでは強くなかった。自らの在り様、行く末、そのようなものを受容するためのテクニックが必要であった。死に瀕したとき、仏の慈悲をたよりに仏国土へ赴くことが、私にとっては必要なのである。それは、真理なのでも真実なのでもなんでもない。単に私にとって、ある状況において必要なテクニック、仏教語でいえばまさに方便なのである。そしてそれは、理性、論理を超えているからこそ、私はそれを信仰と呼ぶのである。
「真理の押し売り」は数知れど、「方便の押し売り」はあり得ない。集団を組んで広めていこうなどという発想もあり得ない。冷やかしに付き合うのも面倒なので、三度くらい本気で聞かせてくれと請われれば、話してみようかと思う程度である。「3+5」という問題があってはじめて「8」という答えがある。問いを共有しない者、「4+6」の問題に対峙している者に、「答えは8だ」と説いても意味がない。
私にとって信仰とは、真理だから信仰するのではなく、単に必要だから持っているものである。加えて、理性的にはおよそ真理などではないと思うからこそ、それを信仰と自覚しているのである。
仏教は、「私にとって必要なものである」と言うところが限界である。「人類にとって仏教は偉大な宗教か?」と問われれば、「人類に聞いてくれ」としか答えようがない。「私以外」のことに言及するほど、私は自意識過剰ではない。
2006.8.10. 神田忠如 拝
夕焼け
今日は、夕焼けがすごかった。オフィスからの風景。
さて、夏期のレポートもすべて出し終わって、ひと段落中です。気が付けば、ほとんど履修が終わってしまいました。ある意味、淋しいですね。まぁ、学部卒業なんて、通過点も通過点、まだ2回表くらいなんで、怠ることなく努力していきましょう。
しばらく、言語(サンスクリット、パーリ語)の勉強に力を入れつつ、卒論のことを進めていこうと思います。


忌野清志郎「FM東京お●んこ野郎」事件
「かっこいーぜ清志郎、これぞロックじゃ、ざまあみさらせ~」と思っていた動画があったのですが、youtubeから削除されてしまっていて、いつ見られなくなるかわからないんで、早いこと挙げておきます。
http://blog.livedoor.jp/stardom/archives/15142955.html
かれこれ15年以上前、忌野清志郎が「夜のヒットスタジオ」の生放送で、「お●んこ野郎」と連発して、FM東京をこき下ろした事件。
糞メディアはボロッカスに言うたったらいんです。何がメディアじゃ、何がジャーナリズムじゃ、くだらないメディアだらけですから。
今朝のテレビもしょーもなかった。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/757747.html
昔からボクシング好きな前提で言いますけど、たかがボクシングで、何をそんなに騒いでるんでしょう。。。ダウンして10-8、ダウンしなくてもどちらかに10-9を付ける今の採点では、12ラウンド積み重ねれば、「見た目」と違った判定になることはよくある。
それに、プロボクシングは「興行」、すなわち「見せ物」であるということも忘れちゃいかん。例えばジャッジの給料は興行主が払っています。純粋にスポーツとしてやるんなら、どっちが何発当てたとか、最新の医療機器を用いて試合後のダメージを計測するとか、数値化してやればいい。興行というのは、もっとファジーなものなんです。
やくみつるなんて、しばいたったらいんですよ、カメパパ。彼がこの話題にここまで首を突っ込んでくる意味がわかりません。機に乗じて稼ぎたいだけでしょう。具志堅ヨーコーが、プロボクサーとしての自分の歴史を賭けて文句言うならわかりますけど。
そして、一番の悪はテレビ局。おもしろおかしいからやっとるだけ。イスラエルの話とか、8月6日広島原爆の話とか、そういう話をしんさいや。どうでもいいでしょ、ボクシングなんて。
ファッキューです。
神保町~古本屋、麻布十番~床屋
今日は、休みの日にしては早めに起床。10時くらい。
夏期スクーリングの前半のレポートは昨日投函済で、今日は後半の2つに取り掛かる。春期の『大乗起信論』もそうだったのですが、『中論』のレポートを書いていて、やっぱり思想にかかわることを書くのは疲れる。言葉で表せないことを相手に伝わるように言葉で書かないといけない。「わかってるんですよ」ということを示すのにくたびれるのです。あるいは、「有る」と「在る」を使い分けたり神経を使う。
喫茶店をはしごしつつ、ふと気が向いたので神保町の古書店街に。私、本に限らずですが、欲しいものが決まっていてはじめて買いに行くタイプで、ウインドショッピングというカルチャーがありません。なので、古書街など散策するのはほぼはじめてでしたが、結構お客さん入るのですね~。『国訳一切経』の律部全26巻で2万5千円という破格の(新品だと1冊7千円くらい)ものがあったのですが、いつどこから虫が出てきてもおかしくないような状態で…。様子見です。
その後、麻布十番の床屋「Claria」に。前回と同じ女性の理容師。マッサージと頭皮のケアが付いたAコースにしました。髪切って、洗って、顔剃りの体勢(椅子を倒します)のままヘッドマッサージに移ったところで記憶が飛びました。なかなかのテクニシアンです。
南 直哉 和尚と半年ぶりに会いました
昨晩は、私の戒師であある南直哉和尚と会っていました。
一般の家庭に生まれた後、26歳で出家、以来19年間曹洞宗大本山・永平寺で修行を続けた師。2003年に下山。2005年春までは月の過半を東京で過ごされていたので頻繁に会えていましたが、2005年4月からは青森の恐山(院代)と福井のお寺(住職)を拠点にしており、今回は半年振りに会いました。ブログ、「恐山あれこれ日記」。
年中無休で袈裟か作務衣しか着ない師。最初に話をしていたホテルのカフェが21時で閉まってしまい、その後、金曜日の居酒屋にお連れしてしまいました。申し訳ない気がします。
パーリ律は南和尚も感心があり『南伝大蔵経』ですべて読まれたそうで、学問の対象にするものとしてよいことだといわれました。仏教「学」は物理学だと思ってやれ! と叱咤激励。その心は、対象(つまり文献)に対して科学的、実証的に当たれということです。
師は日ごろ坐禅の指導等も当然されるわけですが、一つ、なるほどそうだな~ と思うことを言われていました。要するに、仏教に学ぶにしても、ちゃんとした「仕事」を持っていた方がいいということです。
ここで「ちゃんと」とは、就業形態、業種・職種のことではなく、多様な「縁」、人間関係を築くことのできる日常生活ということです。
仏教には、自分や社会を極めて強く相対化してしまう作用がある。自分や社会を「棚に上げて」、観察する視点を持ってしまう。
社会、たとえそれが仏教教学にいわせれば虚妄で迷いなるものであっても、その中で生きていく上で、それとの対比において仏教が自分に適度な視点を保たせてくれるわけです。
ところが社会性が無い人が、単に自分の「非社会性」を正当化、補強するために仏教を用いてしまうとすれば、それは、よからざる姿であるということです。
以下は私論ですが、ほんとうに世俗社会があわんという人は、出家するのも良いんではないでしょうか。けれど、出家した後も、「世俗社会の中にある島社会」に身を置くことになります。島の中はもとより、島の周りを囲む世俗社会との係わり合いも続く。インドの最初期からして、社会との関わりを断絶することが仏教における出家ではないでしょう。
程度の差こそあれ、在家者からの布施に身を委ねる仏教の出家者は、他者との関わりを断絶することはなし得ません。逆に言えば、「在家者からの布施」に相応しい人、相応しい事由がなければ、出家してはいけない、とも言えます。単に、社会から離脱したい、自己の悩み事がある… その程度のことで出家してはいけない。阿羅漢が「供養に相応しい人」を原義とするように、思想家としてであれ、社会儀礼の執行者としてであれ、なにがしか社会のニーズに応えている人がお坊さんなのでしょう。
ポ・ポ・ポンドかよっ
卒業論文で「律」を扱うということは書いたと思います。律の厄介なところは、まとまった形では現代日本語訳が無いこと。
私が卒論で用いる予定の律は、スリランカ上座部のパーリ律、説一切有部の漢訳『十誦律』、大衆部の漢訳『摩訶僧祇律』の3つ。パーリ律は『南伝大蔵経』に日本語訳されていますが、1930-40年代に刊行されたもので「現代」日本語訳ではないのです。漢訳の2本は『国訳一切経』の漢文の書き下し文までで、現代日本語訳はない。
主食となるパーリ律は、『南伝大蔵蔵』とともに、英語に訳されたものを用いようと思います。イギリスのPali Text Society(PTS)というところがパーリ文献は刊行しており、パーリ語原典とともに数々のtranslationがある。パーリ律の英訳はI.B. Horner『The Book of the Discipline』。全6巻で143.00£。
「143ユーロって2万円くらいかな~」と思っていたら、「£」って、ポポポポポンドなんですね!(笑) 1ポンド=216円くらいのようなので、3万円か。amazonで31,869円なので、amazonで買っちゃいます。
しかし、お金かかりますね。一次資料だけで↓なかんじ。これに、研究書も加わる。独身貴族でよかったです。まぁ、買うことは(お金さえあれば)誰でもできるけど、読めるのかっていう問題の方が大きいですが(笑)
パーリ律
…[英訳] I.B. Horner『The Book of the Discipline』 3万円
…[日本語訳] 『南伝大蔵経 第1巻~第5巻』 2万5千円
…[Pali原典] H. Oldenberg『Vinaya-pi.taka』 2万8千円(買いたいけど後回し)
『十誦律』
…[漢文書き下し] 『国訳一切経 律部 第5~7巻』 2万円ちょっと
…[漢文原文] 『大正新脩大藏經 23巻』 (買いません)
『摩訶僧祇律』
…[漢文書き下し] 『国訳一切経 律部 第8~11巻』 2万8千円くらい
…[漢文原文] 『大正新脩大藏經 22巻』 (買いません)
東京に戻ってきた
21時前に戻ってきました。ペットシッターに毎日入ってもらっていたので郵便等は片付いていて、スムースに元の生活に戻りました。が、スジャータ嬢が甘えんぼになっています。
郵便物の中に、東方学院で8月下旬、3日間朝~夕集中で行われる「パーリ語入門」に関する書類が来ていました。先生自身が差出人となって、レジュメが大量に届いていました。先生のコンタクト先も明らかなっていて、小さな私塾の良さを感じますね。
さて、ちょうど亀田のゴング。見ちゃいました、全部。2-1のスプリットディシジョンで勝ちましたが、うーん、難しい判定… まぁ、負けたかなと思いましたね。
今まで、「シャオラーツ」と叫び、余裕綽綽と自分の力を誇示する発言をしていた彼が、インタビューで「オヤジのボクシングが世界に通用することを証明できて嬉しい」と嗚咽を交えて泣きじゃくっていた。素直に、喜んでしまいました、私も。
さぁ、明日からまたもとの生活です。仕事してお金もらってるんで、こんなことができるわけなんで、それなりに働いてきます。
Good-bye Kyoto、Good-bye yun
京都のラストナイトです。明日、授業終了後、新幹線で帰ります。
ここ、会社の人たち、学校の先生、友だち、昔の女性(ひと)等等、いろいろな人が見ているようなので、書けること書けないことありますが、なかなか、思い出の残る京都でした。
『マハー・バリニッバーナ経』にあるゴータマ・ブッダの遺言、「すべてのものごとは過ぎ去るものである。怠ることなく努力せよ。」。
すべての事象は過ぎ去るものです。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと。無常なる在りかたをするものです。
「(恒)常」であるのであれば、常なのですから、努力をしようがしまいが、それはそれとして変わらない。「無常」だからこそ、良く在るべく努力が必要です。無常だからこそ、怠ることなく努力をする。
短い時間でしたが、幸せなときを過ごしました。どうもありがとう。
