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京都での日々
前半戦、27-29日のスクーリングが終わり、30日はオフ、今日31日から後半戦です。
30日は、仲良くなった仏教学コースの「アイドル」と、四条河原町のオープンカフェでレポートを書いていました。オープンカフェで、タバコを吹かし、ラテを飲みながら、iBook、Libretto、『岩波仏教辞典』を広げ、「三蔵」について書くなんて… 乙ですのぉ。
相変わらずドサクサといろんな先生方とお話をさせてもらって、卒業論文のテーマもずいぶん具体化してきました。コンセプトは、先々に「森」を見るために、大切な「木」を見る、といったところ。
卒業論文の段階(学的レベル、時間・枚数などの制約)では、あまり広範なことは扱えません。けれど、だからといって、袋小路、行き止まりというか、単なる興味・関心で終わってしまうテーマではなくて、後々に繋がることを扱おうということです。
その「森」が何なのかは簡単には言えないので省略しますが、、、「木」は、律蔵に現われるとある概念、あるいはとある行事の2つが候補です。
しかしまぁ、思っていたよりは難易度は高くなりそうです。パーリ律だけでやろうかと思っていたんですが、それでは、そう書いてあるよね、ということで終わってしまう。パーリ律に加えて漢訳の律を2本、説一切有部の『十誦律』、大衆部系唯一の現存広律である『摩訶僧祇律』を使って、何かしらを明らかにすることを試みることになりそうです。

京都に来たぞー
私の入洛を待ちわびていたのか、嫌がらせか、今日から爆暑になったそうです、京都。
前半の3日は、午前がインドの経典の成立史、後半が律蔵を基にした仏教教団内の「対立」事件を見る授業。いずれも、インド仏教を、文献に基づいて、史実的に見ていこうとする私にとっては大切な授業であります。
ホテルは、27-28がウエスティン都ホテル京都、29は(とれなくて)アパホテル京都堀川通、30-31はまたウエスティン都ホテル京都、8/1がホテルフジタ京都。6泊で2万円くらい。普通に泊まったら10万円近くするんじゃないでしょうか。健康保険組合の福利厚生で、ウエスティン、ホテルフジタが3,150円なのです。写真のようなインテリアツインに、一人淋しく泊まっています。
日曜日が授業は休み、「アジア史」の科目最終試験があるんですが、天気良さそうだし、試験をパスして、ずっと行きたかった比叡山に行ってこようかな~。

卒業論文のアトリエ
最近は、もっぱら 佐々木閑 『出家とはなにか』 大蔵出版、1999年 を精読しています。こんなかんじでメモを取りながら(自分用なので、未だ整形していませんし、書き方など統一されていません)。
律蔵に基づくインド仏教教団の姿の基礎を改めて押さえておくために。いわゆる概説書でありますが、注釈も豊富で、卒論のテーマのヒントになるようなこともいくつか出てきます。
そうそう、卒業論文のこと、書きましたっけか、ここに。いろいろ総合的に判断して、
・地方:インド仏教
・時代:初期(ゴータマ・ブッダ(BC.5-4c)~AD.5cくらいまでかな)
・領域:律蔵をもとにした史実面
を扱うことにしました。
「史実面」というのはどういうことかといいますと、仏教の研究といった場合に大きくわけで、教理/思想を扱う面と、歴史/史実を扱う面に分かれるのですが、後者ということです。思想面とは「どういうことを考えていたのか」、史実面とは「どう在ったのか」ということでしょう。
もちろん、これは表裏一体です。個々の比丘、その集合の僧伽の実生活の上に思想は生まれてくるし、一方で、その実生活は思想によって規定される(少なくともある程度は)。
なぜこっちにしたか、一つ述べておくと、仏教学というのは基本的に文学部系列の学問であるわけで、文学部でも哲学科の場合は哲学的研究という手法がありますが、基本的には文献学的研究です。したがって、思想面といっても、それは「思想史」の研究であって、「思想そのもの」の研究というのはなかなか困難であるし、またたいして評価されないのが日本の実情のようです(その是非は置いておいて)。
「モノゴコロ」ついてから仏教なんぞをかじっている身ですから、思想にも興味がないことはない。もちろん、私なりの仏教思想はあります。ただ、そこに深入りすると客観性を欠くし、もっといえば客観的に示す必要性が私にはないのです。たとえ、実証性に乏しくとも、私が宗とする仏教は私が理解する限りにおいてのことで構わないと思っていますので。ですので、「学ぶ者としての私」としては、思想を扱うことはやめたわけです。
平たくいえば、学問と私的思想・信条を切り分けた、ということです。学問が思想の邪魔をせず、また、思想が学問の邪魔をしないように。
Wikiの話を持ち出したので、ちょっと別件で一つ書いておきます。「佛教大学 レポート集」というのがあって、私の、渾身のレポートがたまっています。そこに書いた通りですが、パスワード設定を書けることにしました。
私自身は、趣味といっても、好事といっても、ライフワークといってもいいスタンスで勉強しているので、人のレポートを見て楽に仕上げようなんていう発想は微塵も起こらないわけですが、佛教大学の場合、各種の資格や免許を取得しようとして通っている方が大勢いる。勉強は目的ではなく手段の人が。そういった状況を考えたときに、少なくともまったくのオープンに公開することは適切ではなかろうという趣旨です。
そういうわけで、今日メールを頂いた方がいましたが、悪しからずご了承ください。
ゲロル&リコール
昨日(の深夜)、猫草を喜んで食べているという日記を書いたのも束の間、朝、廊下に水溜り状のものがあったので確認したところ、猫がゲロってました。水&胃液と、ドライフードのカスを。
猫草というのは、本来、ゲロルためのものなんです。猫は自分の毛を舐めますので(グルーミング)、胃に毛玉を作ってしまう。それを吐き出すために食べるんです。
が、やっぱりいざゲロられると、まぁ不快であることはともかく、かわいそうでもあります。長毛種じゃないですから、毛玉を吐く必要もないわけですので。
というわけで、猫草はさっそくお蔵入り。捨てるのももったいないので、近所に野良猫がいますから置いていておきましょうか。
話はぜんぜん変わりますが、生まれてはじめて、いわゆるリコールに当たりました。といっても、電動歯ブラシ。「「ウエルテック ソニック ツースブラシN」をご愛用のお客様へ」、これですね。今日、返金のための書類が届きました。本体だけを送ればいいんだそう。こんなものの保証書など取っているわけもなく、よかったよかった。しかも佐川急便の配送伝票まで付いている。大変ですね、企業さんは。
ただ、買った値段を書けとのこと。参考として定価9,800円と書いてある。いくらで買いましたかねえ…。表参道の歯医者で買ったので、明日電話してみます。ずっと使ってきたものを買い戻してくれるなんて、ラッキーです。
お掃除、お掃除
27日木曜日から、一週間京都に滞在です。なので日曜日はお掃除。
私、なにごともやらないときはさっぱりやらない、やると決めたらかっちりやる。極端な方であります。
掃除も2週間に1回くらいしかしません(標準がどんなものなのかわかりません)。そのかわり、やるときはベッドをひっくり返し、窓の枠、玄関の隅々まできっちり掃除機をかけます。風呂はバスマジックリン、トイレは洗浄剤を入れた後にブラッシング、キッチンもピカピカに。
次いで猫様の掃除。トイレの砂を全部入れ替え、それから今日はちょっとペットショップに買出しに行ってきました。まず、今まで循環式の水やり機を使っていたのですが、やめました。入れ替えるのが面倒で却って不潔(笑) 普通の器にしました。そもそも人間様と共用の市販のナチュラルウォーターなんで、フィルターを通す必要もないし。毎朝晩、ペットボトルの水を入れるだけの方が楽です。
それからご飯を成猫(1歳~)用のものに換えました。もうすぐ満7か月ですが、避妊手術を済ませたので食欲が増しています。なので、ローカロリーのものに。ニュートロのインドアというものに。1kg 1,800円くらい、最高級品。
しかしまぁ、当の私は健康もカロリーもおかまいなしに好きなものを食っているのに、猫には何をしているんでしょう(笑)
それから、猫草を買ってきてみました。長毛じゃないんで必要ないらしいんですが、嗜好品として。パクパク食べてました。
ご満悦に寝ています。こと子猫の場合、猫が騒いでなかなか眠れないという話を多く聞きますが、うちの猫はよく寝ます。猫の方が私より先に寝ていて、私の方が気を使いながら、後でベッドに入るような日々です。
ブログいじり
ご覧の通りブログを少々いじりました。2カラムにしてシンプルに。
ブログは、もともとコンテンツ・マネジメント・システムであると『在家佛教』誌にも書き、当初はそのように使っていくつもりだったんですけどね、私には無理です。同様に書いたように、基本的に情報をストックしていくには向いていませんし、そのようなことのためにはWikiなどを使ったほうがよい。
というわけでこのブログは、(エントリーの)「カテゴリー」という概念も捨てて、単なる「日記」である、ということにしました。リンクをまだ置いてませんが、ストック情報はWikiにて。
ちょっと広告が目立ちますかね。田中先生曰く、論文一本書くのに50万必要だそう。本だの研究論文のコピーだの。現在は図書館でレンタル中の平川彰先生の著作集が欲しいし、律蔵部分の『南伝大蔵経』や『国訳一切経』も揃えておきたい。というわけでどしどしクリックしてください(笑)
上部のロゴの横に、なにかイメージ風画像を置きたいんですけどね。思い浮かびません。
山本さん
残念ですね。朝8時の相方・加藤くんのワイドショーを見てしまいました。大変ですね。
「悪者」を弁護するのが好きな私ですが、今回ばかりは…。
38のオッサンですからねえ。17歳の子と遊びたいと思うことがまずおかしいし、少々ロリコンだとしても合法的に充足させているべきで、リアリティをもって、被害届が出されるような形で遊んでしまうというのは、やはり人間的に幼稚であると言わざるを得ない。
人間は、一般に、精神よりも身体が先に発達する。18歳の女性といえば、身体的には十分オトナでしょう。けれども、実際にはまったく未成熟です。一つの出来事によって、彼女の人生はいかようにも転がっていく。
そういった、例えば18歳の女性に相対したきに、それを自分の「ストライクゾーン」に入れてしまうのか、「子ども」として見るのか。私は「子ども」として見ます。
よく勉強し、オトコを見る目を養い、大切なもの、どうでもいいものを見分け、いい人を見つけるんだぞ、と。もう10年、早く生まれてくれば、俺がいたのにね、と。
「社会」というものが子どもたちに影響を与えるといいますが、その「社会」なるものはどこかに独立して浮いているものではなくて、少なくとも30を越えたオッサン、オバサンたちは、自分こそが社会を写す鏡であると思い、日々の愚行を顧みるべきでしょう。もちろん私も。
私しか知らないうちのネコにとって「世界とは私である」のと同じように、私が出会った人の「世界」には、多かれ少なかれ私が影響を与えている。
月並ながら、欲望は、生きる大きな原動力でありますが、適度に制御しないと、災いをもたらします。
「研究」するということ
amazon で評判の良い『研究計画書デザイン』という本をチラ読みしています。仕事を続けながら、或いは仕事を一旦辞めて大学(院)に進学しようとする人が昨今増えていて、そういう人をターゲットに書かれています。その中で、「なぜ大学院で学ぶのか」というくだりの一つの答えとして、「居場所」という表現が出てきました。
「私の居場所」。いま少し噛み砕けば、「私が私として存在することの意味を感じられるところ」ということでしょうか。
学部までは「学習」であり、大学院以降は「研究」でしょう。実際、大学院は「~研究科」という呼称になっている。学習と研究の違い。学習とは既知のことを学び習うこと、研究とは学習を踏まえて未知のことを証明することでしょう。
大学院が見え始め、研究論文を読んでいる今日この頃に感じるのは、「ほとんどのことは既知である」ということです。正確に言うと、「未知のことは山ほどあるが、凡人の思いつきはほとんど既知である」。分野によって違うでしょうが、文明の進歩に余り影響されない伝統的学問においてはそうです。
仏教というのは「思想」ですから、少々かじったあかつきにポンと言ってみる人が多い。物理学のことはポンとは言えないけど、思想は自分で考えたことを何かしら言えますからね。けれど、まぁ、凡人─偏差値25以上75以下、IQ 0以上200以下の人間─が、少々考えて思いつくようなことは、とっくの昔に誰かが思いついています。残念ながら。
研究というのはそういうことではなしに、手間暇かけて先行研究を辿り、丹念に原典に当たって、先学が積み上げてきた石の上に、もう一つ石を乗せて後世に引き継ぐ営みのようです。 先学が積み上げた石の上に、残りの人生をかけて、一つ石を積めるか積めないか。一つ石が積めれば、その上にまた後世の人たちが研究を重ねていく。
そのチャレンジを、私が見つけた「自分が自分として存在することの意味」として、今こうしているんだろうと思うわけです。これを見っけるまでに、自転車で北海道も渡ったし、500柱くらいは坐禅もしたし、仕事もたくさんさぼったし、本もたくさん読みました。その意味において、仏教なり仏教学というのは、私がようやく見つけた宝物なのです。
人それぞれ趣味志向あるでしょうが、「自分が存在することの意味を感じられるところ」、すなわち「自分の居場所」、「自分の宝物」を、なにかしら見つけておかれるといいですね。
注
私が本来有している思想では、「自分が存在することの意味」なるものをも「空じる」べきだと考えています。しかしながら、「覚って」おらぬ以上、現実問題として、なにがしか方便として持っていたらよいだろうと思う次第です。
ひといき
春期スクーリングのレポート2本を出し終えました。1600字で釈尊伝を書けという「難問」、結局、注釈が13個もついてしまった。東方学院のサンスクリット語も先週で前期が終了。後期は9月19日から。
そんなわけで、ちょっと中休み気分。7月27日から一週間京都で朝から夕までスクーリング、すべて専門科目なので密度も濃い。その期間はそれを優先度No.1にするとして、大きく7月後半~8月いっぱい、何をしようかな~ と昨日の午後から今日あたりは考えていました。
結論は、1.サンスクリットの復習と予習をする、2.卒業論文に向けて論文(先行研究)を読む、ということになりました。
1. 今までやってきたことの復習と、最後の授業でガガガと進んだので練習題の予習を。
2. 9月10日-20日が卒業論文のテーマ予備調査提出期間です。「(テーマの)予備調査」ですから、テーマそのものが決まっている必要はないんだそうです。こんなこと(地域、時代、対象…)やりたいんですよね~~~ という程度絞れれば、その後に指名される「相談教員」とともにテーマを決めていくんだそう。とはいえ、ある程度は「テーマ候補」をいくつか出しておきたいものです。差し当たり読んでおきたい論文を7本ほど取り寄せたので、読んでいきます。
代わりにといってはなんですが、卒業まで残り2つとなっていたテキスト履修は少々取っておこうということに。スクーリングは今年で終わっちゃうし、4回生時に卒論以外何も無くなっちゃうと、さすがにつまんないかな~ というのもあるし、残りの2つは大乗仏教思想なので直接的には卒論ともかかわらないので。後でもいっか、と。
amazon、すごいな~
8月10日ターゲットで、テキスト履修「大乗仏教思想」を攻略すべく、参考文献を買おうと久しぶりにamazonを見ていました。そしたら「Amazon e託販売サービス」なるものが始まっていた。(6月12日に始まったそうです)
要するに、9,000円の年会費を払い、本をamazonに納品すると、amazonが販売してくれる、というサービスです。「古本屋を始める」んではないですよ、自分が販売する権利を有している商品を売るのです。
「20歳以上の個人」か「事業体」であれば、誰でも参加できます。
出版社、問屋、書店。従来、本ビジネスには、この三者が必要でした。ところが書店はamazon、問屋は不要となり、そして出版社の機能も問いただされる。
そもそも「本」というのは物理的に紙に刷られて整えられていれば「本」なわけで、「出版社」なるものは、流通という点に限っていえば、単なる権利ビジネスに他ならなかったわけです。「出版社に採用されないと本として世に売れなかった」だけの話で、自分で書いて(あるいは売れそうなものを持ってきて)、物理的に本を作って、amazonに出せば、それで終わりです。
インターネット・ビジネスにおいて「ロング・テール」という用語があります。物理的な世界においては、効率や物理的制約(店舗の面積とか)があって、ごく一部の「メジャー」(ヘッド)な商品だけが売られていた。
ところがインターネット・ビジネスにおいては、在庫や物流にかかるコストが低いので、「マイナー」(テール)な商品もビジネスに組み込むことができる、ということです。
売り上げと商品数の関係のグラフを描いたときに、たとえばパレートの法則(にっぱちの法則)でいえば、20%の商品で80%の売り上げをあげていて、リアルなビジネスにおいては効率上、あるいは物理的制約上、ここしか相手にせずに商売をしていたんだけど、オンライン・ビジネスにおいてはグラフ右端、長~い尻尾(テール)の部分も相手にできるわけです。
とても一般の流通では扱ってくれないような本を集めて、年間9,000円のリスクで「出版社」が始められるし、もちろん自分で書いて出すこともできる。
日ごろ「とても一般の流通では扱ってくれないような」ことを考えている身としては、久しぶりに「商人魂」がムズムズしてきました。
東方学院、よかところ
前田專學先生からお手紙を頂きました。東京大学名誉教授、日本印度学仏教学会前理事、中村元先生没後の印度学仏教学の大先生。
といっても、財団法人東方研究会の理事長交代のお知らせの通知でした。中村元先生の奥様である現理事長・中村洛子さまの健康上の理由により、前田專學先生が理事長に、奈良康明先生が常務理事にとのこと。(東方「学院」のほうはもともと前田專學先生が学院長です)
東方学院。私がサンスクリット語を学んでいるところです。中村先生を中心に、東大の印哲を出られた方で始まった私塾。私がサンスクリット語を習っている水野善文先生(現・東京外国語大学助教授)も東大の印哲出身です。
費用は入会金が3万5千円(継続の場合は2万5千円)、1科目4万円(基本的に週1回、年間20回強)。「未就労者に限り学割」と書いてあったので、私はてっきり学割はできないのと思っていました。で、分納が可能なので、とりあえず前期分だけ払っていたら、あるとき電話をもらって、「学割でいいです(から、後期分は振り込まないでいいです)」「働いてますけどよろしいのですか?」と聞くと、「佛教大学の通信の方は学割で結構です」とのこと。わざわざ電話をしてきてくれて、売り上げを減らす。営利企業ではあり得ない発想ですね。
夏と冬、各丸3日間朝から夕までで行われる集中講義「パーリ語 入門」も受講します。てっきり4万円かかるのかと思っていたら、集中講義は2万円でよいらしく、加えて学割なんで1万円でいいらしい。1日5時間の6日間ですから、30時間、1時間あたり333円ですか。リーズナブルです。
800字で悟らせる
春期の2つの授業のレポート〆切が来週火曜日。「仏教文献研究3」の「『大乗起信論』に説かれるアーラヤ識について説明せよ。」はロジカルにスイスイーと書けたのですが、「仏教学ゼミ3」の方が案外厄介。
課題、「ゴータマ・ブッダの生涯をまとめよ。」(笑) 配布された渡辺照宏『新釈尊伝』を読んで。
あのですね、1600字で釈尊伝を書くって、却って難しいです。昨日書き始めましたが、「先は短い」ことが分かっていますので、厳選に厳選を重ねてピックアップしていったのですが、悟る前の苦行中で既に1200字。これは厳しい。なんとか800字で悟ってもらって、残り400字で初めての教えを説いて(初転法輪)もらって、残り400字で教団を作ってもらって、サササと入滅させないといけません。今晩再チャレンジ。
並川先生の授業の本来の趣旨は、一言で言ってしまえば「ゴータマ・ブッダ伝承の非史実性」なんです。今日、釈尊伝として言われる話は、あらゆる文献のおいしいところを摘み食いして、パッチワークのように仕上げたものである、と。
「ゴータマ・ブッダ伝承の非史実性について書け」の方が私は楽です。が、先生と話したところ、それはみんなに出すには難しいし、とにかく最近の学生は本を読まないから、本を読ませたいんだ、とのこと。レポートを読めば、本を読んだか読んでいないかが一発でわかる、と強調されていた。
「ゴータマ・ブッダ伝承の非史実性」について少々書いておきます。
今日、釈尊伝として一般に承認されている「プロット」(筋書き)は、「誕生→結婚→子ども誕生→出家→瞑想×2→苦行→瞑想→覚る」という流れですが、これの完全な形を備えた初期の仏典は、無い。授業で見た文献でいえばパーリ中部『聖求経』では瞑想×2の後に苦行しないで悟っちゃっているし、『大サッチャカ経』では苦行が詳細に描かれていたり、とにかくものによって内容が全然異なる。日本で一般に承認されている上述のプロットも、実際には、先学(水野弘元先生かな)がパッチワークした一つの作品なのです。それをあたかも「史実」のように取ることは少なくとも学問上はまずい。
私は前から言っていますが、然るに、「これがゴータマ・ブッダの真実だ/本当の」などという言い方をする人は、およそ歴史がわかっていないか、もしくは「分かった上での商業上の確信犯」でしかない。
今日までのところ、ゴータマ・ブッダが直接記した書物は確認できていません。ゴータマ・ブッダの生涯や言葉と称されるものの「すべて」が、後の時代に「作られた」ものです。無論、だからダメだという話ではないです。価値評価は別の話です。「作者の意図」を汲み取りながら、冷静に、把握していかないといけないということです。
私のものの書き方
ものを書くこと。もともと好きだし、得意な方だと思いますけど、さらに佛大の通信でだいぶ鍛えられました。とにかく書いて書いて書きまくりですから、通信教育は。
しかし、最近、自分の「書き方」を改めようと思っています。私の書き方って、実は、「勢い」なんです。
原稿用紙4枚や8枚といったレポートは、アウトプットは実質1日です。ほんとに一筆入魂で、「~は~といわれているが、ここでは~についてみていくことにする。」とエピローグから書き始めて、「以上~について見てきたが~である。」とエンディングまで一筆書きで書いてしまう。
一度そうやって規定枚数以上書いてしまってから、それをカチンコチンと叩いて叩いて叩いて(推敲)仕上げるんです。
野口悠紀雄氏はそれを「現役効果」「自動進行効果」と呼んでいるそうです。一回走り出すと(書き出すと)、走り続ける。
けれど、それは実は良くないことは分かっている。やっぱり、一度仕上がってしまうと、その文章が良く見えてしまうものなんです、人間は。
4枚や8枚程度なら勢いでいけるけど、卒論の50枚、院での百枚単位での文章を書くとなると、それじゃ無理。もっとロジカルに書かないと破綻します。
というわけで、今回の春期スクーリングの『大乗起信論』のレポートは、Q.→A.、Q.→A.、Q.→A.をしっかり掘り下げていく図を事前に描いてから書きました。そうすることで論拠に乏しい思い込みを書くことも減るし、漏れや重複を避けることができる。
最後に原稿用紙に書くときは、各パーツを並べていって、字数に応じて肉付けしたり、接続詞を吟味したりするだけ。んで、ソフトに離陸しソフトに着陸するように、始まりと終わりをストーリー風に丸める。
今回は〆切がありますから適当にやりましたが、時間が取れる時期がきたらもう一度、マッキンゼー&co.,のバイブルらしいバーバラ・ミント『考える技術 書く技術』を熟読しようと思います。
動物に優しい私
私、人間さまに対しては比較的ドライに接しますが、昔から動物には優しいのです。
先週のいつだったか、「神戸らんぷ亭」で夕食をしていたとき、最近、納豆を週に1-2回は食べるのですが、その私の納豆の空き箱に虫が突撃してきたのです。ハエよりも小さく、夜の自動販売機に群がっているような、我が部屋には1匹たりとも侵入させたくない、きもちわる~い小さい虫、赤みがかった。
納豆地獄に落ちた彼は、だんだん身動きとれなくなってきたのです。私は、ナフキンをとって救出を試みたのですがダメでした。だんだん動けなくなって、最後、ご臨終を迎えた彼。かわいそうでした。救出に乗り出しのたが遅かったのです。からまっていない段階で払えば良かった。悔やまれた一瞬です。
で、昨日。とある立ち寄った場所で、トイレに入り、洋式の便座のフタを開けたところ、ゴキブリさんが便器の中から出てきた。キャー。ゴキブリさんは、なんて言えばいんでしょう、その、便器の中の端のほう、水が流れ出てくるところに隠れたのです。小をして水を流してしまえば、彼は溺死でしょう。その場所には、トイレが二つあったので、そっとフタを閉じて、隣のトイレに移った私。優しさライセンスが垣間見られた一瞬です。
人間は、誰もが多かれ少なかれ計算して動いている。青臭いことを言うようだけど、動物の一挙手一投足には計算がない。人間が滅んで、動物だけになったほうが、地球は美しい生命体になるに決まっている。彼らには優しくなってしまうんですね、私。
有隣堂 六本木ヒルズ店 閉店
六本木ヒルズオープン以来あった本屋「有隣堂 六本木ヒルズ店」が7月17日で閉店。閉店セールで文具や洋書が40%引きとのことで見に行って来たら、残り物しかないような状態になっていました。
次に入るお店は何なんでしょう。紀伊国屋書店、八重洲ブックセンター、ジュンク堂、このどれかに入って欲しいのですが、まさか服屋なんか入らないですよねー!
どうも六本木ヒルズは「文化的」水準が低いようで、ヴィレッジ・バンガードもすぐに潰れてしまった。結局、服屋や飯屋ばっか。
「服か飯」って、「敗戦直後」の発想ですよ。もういいじゃないですか。
本屋、古本屋、マック、吉野家、ユニクロ、ギャップ、理容室、てもみん、TSUTAYA、ビックカメラ、セブンイレブン、ペットのコジマ。これこそが「文化的」現代人にとって必要なのに、ほとんどが無い。まったくもって、「文化的」水準が低いのです。
追伸 「文化的」と括弧で括っているように、自虐的な逆説ジョークですからね。
春期スクーリング、終了
というわけで3週目終了。来週は週末3連休なんで、平日に構想を練って、週末にレポートを書きましょう。
午前の田中典彦先生には随分かわいがって頂いて、休み時間に初めて「研究室」というところに入れてもらいました。本がいっぱいあって幸せな空間でした。
授業中も、「十二支縁起わかるか? はい神田~」と振られ、一瞬焦りましたが、「無明 行 識 名色 六処 蝕 受 愛 取 有 生 老死」バシコーンと答え、「名色(nAma rUpa)の研究誰かやれ~ 頭切れるやつ~ 神田だ~ 神田やれ~ お前は理屈っぽいからやれ~ じょうだんやでぇえ」ともて遊ばれ。
あのですね、「同級生」として叱責しますけど、今回も、「梵我一如って知ってます? 宇宙の原理はブラフマン、自己の原理は?」(答:アートマン)、「沙門て何ですか?」(答:バラモン教の対立軸で発生した自由思想家)。この程度のことに答えられないんです、同級生たち。
その、人それぞれいろんな動機がありましょうし、目指すところは違いましょうけど、なんせね、最低限のバラモン教の教理が分かってなくてはその対立軸で発生した仏教も位置付けられないし、「アートマン」という概念が分かってなくては、仏教のいう無我なり空なりという概念も分からんでしょう。
午後の並川先生もそれとなく言っていたけど、曲がりなりにも卒業論文を書こうという人がそれじゃまずいでしょう。この程度のことが分からずに、初期仏教だの『大乗起信論』だの言ったってまったく始まらない。限りなく無意味に近い。
※学問的に、ですよ。
それから、並川先生の授業で、一人、僧籍を持っている人が寝ていて、恐らく日ごろの行いが悪いのでしょう、(顔と名前は一致しておらず)名簿で当てる先生に当てられて、ぼちぼち怒られていた。まぁ、話にならん。
あのね、私も今日は当日入りだから、5時に起きて6時の新幹線で行ってるんですよ。普段、深夜の2時とか3時に寝る身なんで、早く寝ようとしたけど無理で、結局2時間くらいしか寝てない。だから、めっさ眠いのですけど、寝たらあかんと思って、とにかく机に手を置かないようにしていました。背筋を伸ばして、手を前で組んで、先生を睨み(笑
頼みまっせ、同級生。(私も含め、)もういいおっさんなんですから。
誰かに分かることが自分に分からんわけがない。ハート込めて、努力しようぜ。
働き者、学び者の七夕
今日は23時くらいまで深夜残業。といっても、毎日のようにそれくらいまで働いている人はたくさんいますが、私は滅多にありません。上司よりも同僚よりも早く帰る私。
そしてその後、24時30分過ぎまで六本木のエクセルシオールでレポートを書いていました。「仏教学」を10日までに出すべく。ずばり、原始仏教と大乗仏教の思想的特徴を説明する課題。原始仏教は何度も何度も推敲して、直すところが一点も無く仕上っていて、今日はざっと書いていた大乗仏教思想について練り上げ。推敲の過程が好きなのです。鉄を打って真剣にするように、何度も何度も赤を入れては印刷し、また赤を入れては印刷。
なんせその名もずばり「仏教学」ですから、ダブルA必達、「絶対に負けられない試合がそこにはある」なのです。
後ろでは若いお姉ちゃんが外人さんを逆ナンパしていました。両サイドには飲み屋のお姉ちゃんと思しき婦人が。そんな中で『岩波仏教辞典』のキータームのコピーを読みながら、空だの六波羅蜜だのの概念に漏れがないから確認している私。
これねえ、絶対成仏しますわ。「絶対に成仏する男がここにはいる」なのです。そういう者(成仏を求めており且つそれが約束された者)を「菩薩」と言うのです。故に、「ここに菩薩がいる」なのです。
敬虔な仏教徒の皆さま、冗談ですよ。
日曜は春期スクーリング最後の京都。ホテル代とペットシッター代を節約すべく、はじめての日帰りにチャレンジです。東京駅 6:07だったかな、始発の「のぞみ」で行くと、京都駅で地下鉄に乗り換えて北大路駅に8:40分くらいに着くはず。そこからタクシーで9時から授業。6コマこなして、18:30くらいの新幹線で21:00に帰着。しかし、元気ですね、私。
「弾道ミサイル」、知ってます?
みなさん、テポドンのような「弾道ミサイル」って、普通に「空」を飛んでいると思ってません? 日本海に落ちたって、朝鮮半島からピョンと飛び出して、チャポンて日本海に落ちただけだと。違うんですって。いや~ びっくり。
「宇宙空間」(大気圏の外)を飛んでくるんですって。スペースシャトルの軌道なんかよりもずっと高いところ。
だから、ロケットのように打ち上げるんですね、真上に。上がるところまで上がって、後は慣性によって猛スピードで大気圏に再突入して落ちてくる。最終的に落ちてくるときのスピードは秒速 数キロメートルですって。1秒で家に帰れる、「どこでもドア」並のスピードです。
欠点は、命中精度が低いらしく、半径2キロくらいずれるらしい(十分すごい精度だと思うけど)。だから、その誤差をカバーするために核を積むことが考えられるのだそう。
んで、その1秒で数キロ移動するミサイルを迎撃するシステムがまたあって。
宇宙まで視野に入れてミサイルを作る人類って… なんだかなーという感じですね。
中田引退
ナカータが引退だそうで。
彼のメッセージの中で、「“新たな自分”探しの旅」という表現があった。縁起故に空であり無常であり無我であると論ずる私は、「自分探し」というものを否定し続けてきました。
「自分なるもの」は、「有る」のではなくて、条件と原因に縁って(或いは条件と原因の中でと言ってもよいが)、瞬間瞬間に仮に立ち上がっている現象に名称を付したものに過ぎない、と。いわば、局面局面で仮面を被った自分が仮に成立するに過ぎず、仮面をはずした「自分そのもの」は見つからない。
この、見つけ得ない「自分そのもの」─印度学でいえばアートマン(自我)─を「真実の自己」などと称して、発見、徹見、大悟、見性するなどという禅の輩がいるから性質が悪い。
が、しかし。よくよくナカータの言っていることを見ると、「新たな自分」なのである。「真実の自分」や「本当の自分」ではなくて。上の文脈でいえば、「新たな仮面」を探しに行ったということである。それならば、よくわかる。
なんでもハーバード大学でMBAを取って実業界へ、という報道。ナカータよ、そんなこと言ってないで、佛教大学に来て印度仏教学やろうよ。そっちの方がおもしろいよ。
時間よ止まれ
サンスクリット語の予習をしたい、「仏教学」のレポートを練り上げたい、既に課題の出されている「仏教文献研究3」のテキストを読みたい、卒論に向けた先行研究書を読みたい…。
そんなさかな否さなか、7月は四半期のスタートであり、普段はあまりない“飲み会”がいくつか入ってきます。今日も。
23時に終わって、六本木のエクセルシオールで25時までサンスクリット語の予習をしていたオレ。
夜の町で風が吹くたび、俺たちはタバコをふかす。そして最後の一本を吸い終えると、帰る金にさえ足りなくなっちまう(以上、尾崎豊『Freeze Moon』)… ことはないけど、夜な夜な帰宅。
今夜こうして夢見たみたいに 俺は生きて行きたい
だから もっと速く もっと もっと輝くまで
俺たちは 走り続けて行かなければ Ah~!
(以上、尾崎豊『Freeze Moon』)
矢沢えいきっさんの「時間よ止まれ」にもっていくはずだったのに、尾崎はんになってしまいました。あんまり知らないのです、ごめんよキャロル。
苦しみには原因がある、ということ
苦しみには原因がある。原因を取り除けば開放される。
このごく基本的なことに仏教のスタートが詰まっている。「何故、かくのごとくなのか」という思惟が、古代インド哲学のすべてと言ってもいいでしょう。ある人は、ブラフマン(宇宙の根本原理)の転変だといい、ある人は業の報いだといい、ある人は運命だといい、ある人は理由はないと言ってきた。
その中で、仏教は、「ものごとには、原因がある」と言った。
人は、他人のことは随分客観的に見ることができるもの。「他人事」ですから。一方で、自分のこととなると、そうもいかなかったりする。
他人事にアドバイスするように、自分にアドバイスしてみれば、実はほとんどのことは道が開ける。
苦しみには原因がある。その苦しみを開放したいのであれば(*)、その原因を取り除けばよい。
(*)たまに苦しみを楽しんでいる人がいるので添えておきます。
別に、頭がおかしくなったわけじゃないですよ、私。
このニュースを見ていて思っただけ。
「お金を貸してくれない、不満である」。この問題(苦しみと言ってもよい)に対して、「火をつける」ことは解決にならんのです。
これは異常なケースと思うかもしれないけど、案外、自分のこととなると人間はこういう思考破綻になることがある。この女性だって、他人事にアドバイスするのだったら、「火をつけちゃえ」とは言わなかったでしょう。
自分は病んでいるんだと認識すること。その病いには原因があることを認識し、原因を突き止めること。病を治したいという意思を持つこと。そして、その原因を取り除くこと。
病気の治療と一緒で、それ以外に開放される道はないのです。
スクーリング、2週目
帰ってきました。今までで一番楽しい楽しい京都でした。って、別に、お姉さんと遊んだわけではありませんよ。いろんな収穫がありました。
授業はそれなりにこなしています。
帰りの新幹線で「仏教学」のレポートを書いていましたが、一つ、自戒の意味を込めて、辞書を引きましょう、私。キー・ターム(「縁起」「四諦」「煩悩」「覚り」「菩薩」「利他行」「六波羅蜜」「空」等)が明示されていて、それを用いて初期仏教、および大乗仏教の特徴を説明する設題なのです。
私は、昔からそうなのですが、あまり辞書を引かないんです。悪い癖です。
基本的性格として、努力家ではあるのです。だからまったく知らないことは丁寧にやっていく。今でいえばサンスクリット語。なんとなく単語の意味を並べて文意をとろうとする学友を見ると、蹴ろうかと思う(冗談ですよ)。ちゃんと、語幹、Sandhiを受ける前の形、性、数、格を出して、機械的に意味を取った後ではじめて、必要ならば意訳をしろ、と。
が私は一方で、「調子乗り」であり、加えて幸か不幸かそれでもなんとかやってけちゃう「器用さ」を備えているので、ある程度まで慣れると、楽をしようとする。
サラリーマンとしてのモットーは「ニッパチの法則」(パレートの法則)─重要な20%を押さえれば、80%の成果が得られる─、な私。
学問ってのはこれじゃいけない気もします。効率追求じゃないですから。「煩悩とは何か」、「覚りとは何か」、「菩薩とは何か」。しっかりと詰めていかないと、足元すくわれそうです。

