宗教の勧誘

2006年6月 8日 | コメント(1) | トラックバック(0) このエントリをメール このエントリをYahoo!ブックマークに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 このエントリをtwitterに登録

 親しい人から、とある新興宗教団体から勧誘があってどう断ればいいか、と相談を受けました。

 「忠如が違うと言っているから私も違うと思っている。ほんとに私を勧誘したいなら忠如にまずは話してみて。」と伝えておきました。なんだかそれはそれで忠如教みたいでアレですけど、かなり親しい人なので。ほんとに電話が来たら、とうとうと教理教学を衝いて糾弾します。

 その~、宗教法人の活動に賛同して信仰をするということは、決してそれ自体悪いことじゃないし、いいことだと思うんですけどね、どうも私はアレルギー反応があって、「(お前がしたいなら)別にいいと思うけど、そういう人と俺は関わらないからよろしく」とか投げ捨てちゃう癖がある。

 このアレルギーはなんなんでしょうね。一々の宗教教団が如何に“間違って”いるかを言いたいわけじゃないんです。そんな気力や暇はないし、そもそも「ゴータマ・ブッダの考えたことからすると、それはずいぶんと変容しているね」とまでは言えても、それが「間違っている」とは言えませんからね。

 そういうことじゃなしに、私がアレルギー反応を示すのは、「自分で考えろや」ということなんでしょう。

 宗教というのは、みんなで集まって傷を舐め合っていきましょうということじゃないと思うんですよね。

 「或るテーマを共有する者たちの集い」ということはあっていいと思いますよ。けれど、宗教そのものは、一人一人が自分で勉強して、自分で実践して、自分で組み立てていくもので、つまり、人が集まるとしても、それは、全員がフラットな状態で集うべきだと思っている。ピラミッド型じゃなくてね。

 もっと自分のノウミソに自信を持ってさ、自分で考えろ、というのが私のアレルギーの源泉でしょう。山ほど学ぶツールや機会はあるんだし、「入る/入らない」ということ抜きに実践できる場、話を聞ける人、見ることができる光景もあるはずで、別にどこそこに「入る」意味がよく分からんし、そこに「入った」ことで宗教なり仏教なりをやっているつもりになるんだとしたら、「なめんなよ」と思う。

 もうちいと、自分を拠り所にしましょう。

 ゴータマの遺言といわれる一つに、「自灯明、法灯明」と表現される言葉がある(『マハー・バリニッバーナ経』)。自らを灯火(ともしび)とし、法を灯火として生きていけ、ということです。「俺を信じろ」とはゴータマさえ言わなかった。「自ら」と「法」、それしかない。どこかのオッサンや、どっかのグループに付いていったところで意味が無いんです、そんなものは。ウンコな人たちに巻き込まれるのはやめましょう。

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pumpkin | 2006年6月 8日 22:12

学生時代に沖縄出身のバスガイド
やっている女の子に折伏されて
日蓮宗系の新興宗教の拠点に見学に行ったことがあります。
『南無妙法蓮華ー経ー。』と反復していました。
また、鎌倉期創設仏教教団の全てを
欠点を挙げて非難して、自教が一番正しいのだという信者の演説を延々とビデオ放映してその会場にいた『信者』や『折伏されて連れて来られた人』が
見入っていました。

とにかく入会すれば全ての行いが
良い方向に向いていく、という例を
実例(かどうかは知りませんが)を元に淡々と話して、教団への入会を催促します。

ああ、この人たち分かってないな。
ってその女の子に離檀を勧めましたが
先輩の建前もあるからと継続する言葉を貰いました。

会場に居る方々は完全にトリックに掛かっているようで、ある意味不気味でした。

兎にも角にも己を信じなければ始まらないんですけどね・・。

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