ウェブ上での議論は難しい、というか、あまり好きじゃない

2006年3月29日 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリをメール このエントリをYahoo!ブックマークに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 このエントリをtwitterに登録

 コメント欄でご指摘頂きましたことに回答したように、私はウェブ… というか字面だけでの議論は好みません。

 「縁起論者の立場としては……好まない」と言った意味は、言語として発せられることは、発信者の立場を離れては考え得ない、ということです。

 事象は、因と縁に縁って仮に(縁起的に)成立していると考え、且つ、その本来無自性=空であるものを恒常であると錯覚するもとが「言語」であると考える立場ですから、発信主体を抜きにして言語だけで議論をすることを好まない、ということ。言語として切り出された時点で、それはものごとそれ自体とは異なっている、言語はものごとそれ自体を指し示さない、示せない、ということです。Aは、それはAじゃない、それもAじゃない、あれもAじゃない、と、周りを否定していくことによってしか示せない、ということ。「AはBである」と言った瞬間に誤謬であるということ。

 じゃあ、なぜお前は言語で語るのかといえば、それは仕方ないからです。言語の限界を言語で語るパラドクスこそ、仏教者の歩み道そのものだろう、と『在家佛教』にも僭越ながら書いた次第です。

 難しいことです。加えて、結局のところ、多かれ少なかれ「信」の問題もある。現象界は縁起である、否、何らかの原理の転変である、寄せ集まり(積聚)だ、神が創造した… 最終的には信の領域を免れないですから。神がいないことを証明は出来ないし、問題は、私にしたら証明するつもりもないこと。その時点で、有神論者の人とは、学問的な議論はできない。

 同じ仏教の中でも、命は素晴らしという人もいれば、一切皆苦という人もいる。私には私の理解する仏教があって、それを人と議論するというのは… 商売にしたのならともかく、現時点では骨が折れることです。

 「佛教大学」の英称は、「Bukkyo」University です。Buddhism とか Buddhist じゃない。つまり、「佛教」を固有名詞として用いている。その趣旨はわかりませんが、仏教学が扱う「仏教」と、私の宗とする「仏教」には相違があって、ここに書いていることは単なるエッセイですから後者に属するもの、その点、ご了承ください。

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