私は「偽善者」ではない
2006年2月17日 | コメント(3) | トラックバック(0)
ペットの話になると途端にヒステリックブルーになる人がいますね。
たとえば、「近親交配が心配。後々問題が発生したらかわいそう。」と発言すると、「誰がかわいそうなのか? かわいそうなら、真っ先にその猫を引き取るべきでは?」などと言う人がいる。
鬼の首を取ったようなつもりなのであろうが、残念ながら落第点の指摘。
まず、そういう思想(「かわいそうなペットこそ引き取るべきだ」)を持っているなら、「近親交配は危ないですよね。ところで、どちらの猫ちゃんですか? 居場所を教えてください。」と聞いて、こっそりと引き取ってくればよいはず。
それから、こういう人らの勘違いは、「お前は偽善者である」と指摘したつもりなのであろうが、私はそもそも「善者」だと思っていないし、言っていないこと。
ボランティアの類も同様。私はとあるNPOの社員会員であり、加えて口座振替で毎月寄付もしている。「偽善者だ」と言う人がいるけど、だからそもそも「善者」だなんて言ってないって(笑)
私は悪者、愚者です、もともと。だから、せめて「悪者らしくない」と言ってもらえれば、それは「私の不徳の致すところ」だと答えられるのに。
法然が「我、三学の器にあらずや」との告白のもと、そんな凡夫の私でも救われる道はないかと一行専修念仏の道を開き、さらにその弟子・親鸞は有名な「善人なほもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」まで行き切る。
私が汲み取る親鸞の意図は、人間存在に対する痛切な自己批判である。彼は公然と妻帯もし子どももたくさん残したが、それは無批判な破戒ではなく、痛切な自己批判のもとに成り立つものである。自己批判の無い「いわんや悪人をや」はろくなことにならぬのは、歴史の示すところである。
これは何もいわゆる他力信仰に限ったことじゃなくて、そもそもゴータマにはじまり、仏教は人間存在を問題視する否定的側面がある。自己批判のない者に仏教は無意味だろう、と私は思う。
「現実だと思って夢を見ている者」と、「夢だとわかって夢を見ている者」とでは、自ずとその振る舞いが違ってくる。加えて、「夢だからどうでもいい」というのもまた違う。極端からは何も産まれない、それが中道という態度です。「夢と知りながら夢を見つつ、夢なりに適正な日々を送る」、そんなあたりです。
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私が例にあげたのは、(ペットとして)動物を可愛がったり、寄付をするといった行為は、一般にいう「善人」─善いことをする人─と言われていて、それを「偽善」(偽りの善いこと)であると衝く人がいる、ということです。
で、その指摘は間違っていて、なぜかというと、私はもともと自分を「善人」(善いことをする人)だと思っていない、ということを述べたまでです。
>神田様がお考えになる「善人」
「善人」という概念は私にはよく分かりません。何を言っているのか不明です。
但し、私が考えるとこにおける、「私もそうありたいと思う人」像は、「すべからざることをせず、すべきことをし、心清らかに居て、死なされるときが来たら静かに死ぬことができる人」という程度のことです。
仏典に典拠を求めれば、いわゆる七仏通戒偈─「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」─あたりです。
お答えありがとうございます。
すみません、ちょっと余計なことを書いてしまいました。
でも、大変勉強になりました。
ありがとうございます。
「死なされるときが来たら静かに死ぬことができる人」なるほどなと思いました。
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hana | 2006年2月17日 17:35
偽善者ですか・・・・
難しいですね。
神田様がお考えになる「善人」とはどんな方ですか?