行いのありようが人のありようを決める
2006年2月15日 | コメント(6) | トラックバック(0)
ネコかオリンピックの話しか書いてないので、たまには仏教の話を。ブログを見ていたら、私の師匠である南直哉師の言葉にぶつかる。
このコップは、私が水を飲むからコップなのであり、そのときの私という存在は"水を飲む私"としてしか存在しない、だから道元禅師は作法と言う。行いのありようが人のありようを決める。
これは、端的に南師の仏教、私の理解する仏教を現しているんじゃないかと思いますので、少々。
前半─「このコップは、私が水を飲むからコップなのであり、そのときの私という存在は"水を飲む私"としてしか存在しない」─。これは「存在するとはどういうことか」ということ。
仏教の縁起観によれば、「私が独立自存していて、コップも私とは無関係に存在していて、その二者が出会う」という見方はしないのです。
便宜上「実在」を仮定して(「実体」は否定します)、それを「なにか」と呼ぶとすれば、後に「私」と称される「なにか」と、後に「コップ」と称される「なにか」が出会い、「関係」を持つことによって、一方の「なにか」は「私」となり、他方の「なにか」は「コップ」となるのです。
逆に言えば南師が言うように、「コップで水を飲んでいる」時に、「コップで水を飲む」以外の「私」は存在しないということ。関係性を紡いでいる「なにか」を仮に「私」と称しているだけで、他との関係を抜きにした「私」は、誤謬であるということ。
それは、言語(概念)がもたらす錯覚です。「私」、「神田なにがし」。概念は恒常ですから、独立自存した、他と無関係の「私」というものがあるように思う。
しかし、例えば、「体」の細胞は数年でまるきり入れ替わる。「心」もまったく変わっていく。つまり、「私」という概念に対応する実体は無いんだということです。「私が存在しない」と言っているのではないです。便宜上、なにかは存在するとしてもいい。言っているのは、「私」とは、言語によって仮に設定されたもの(仮設)であり、それを実体視するのは誤謬であり、根拠に欠け、「苦」の元である執着、欲望といった類は、この「我」を実体視するところ(常見)から生じている、ということ。
後半─「だから道元禅師は作法と言う。行いのありようが人のありようを決める。」─。「私」とは、他との関係を仮に称したに過ぎないのだとすれば、他とどう関係するかが「私」の在り様を決めるということ。したがって、行為、振る舞いが問われるわけです。
初期仏典の「生まれによりバラモンに非ず、行為によりてバラモンとなる」、道元禅師の「仏道をならふとは、自己をならふなり。自己をならふとは、自己を忘るるなり。」、いずれも同様の趣意でしょう。
東横インのマヌケな社長は「内観」によって「真」の「自己」を発見したそうですが、坐禅は、「自己」が「仮」であることに気づくためのもの。気づいた後は、小部屋に閉じこもっていてはいけません。仮の自己を再構築すべく、瞑想から立ち上がって、他との関係を紡いでいかねばならない。
「何を言うか、坐禅は真の自己を徹見するんだ」という御大に言いたい。何故、あなたの大好きな「真の自己」に出会える瞑想を辞めちゃうのか。ずっと瞑想してればいいのに~、と。
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『語る禅僧』(朝日新聞社)ですよね。なかなか手に入りづらい状況のようです。
私が見つけた中で現在すぐ買えるのは、amazonのマーケットプレイス(ユーズド商品)のみです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022572183/zen05-22
しかも、4,400円というプレミアム価格がついています(定価は1,600円)。古本屋さんの過去の記録なども見ても、3,000円以上程度で取引されているようです。
お忙しい中、教えていただきましてどうもありがとうございます。
4400円なんですか??
すごいびっくりです。少々迷ってしまいます・・・。すみません、せっかく教えていただいたのに・・・。
そんなにプレミアがつくのに、なんで朝日新聞社さんでは、再版してくださらないんでしょうね。
私の所蔵するものをお貸しするということは可能ですので、ご希望でしたらメールしてください。
お疲れ様です。
ご親切にどうもありがとうございます。都内の書店で二件ほど問い合わせております。
あまり期待はできていなかったのでうれしかったです。
回答が来て、やはり無理そうでしたらメールさせて頂きます。
読めないかなってあきらめていたので本当にうれしいです。ありがとうございます。
shiba | 2006年2月18日 08:11
はじめまして。shibaといいます。TBありがとうございました。
まさか南師のお弟子さんの方から見ていただけるとは思いませんでした。仏教のことはいつも自分の問題意識の中にあって、座禅もぜひ体験してみたいと思っているのですが、日々の雑事に追われてなかなか実践できずにおります。
よろしければこれからもお立ち寄りいただければ幸いです。
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hana | 2006年2月15日 17:47
南師の言葉はやはり深いですね。
実は今、「禅僧は語る」を探しているのですが、どこの書店でもないんです。
どこか売っている場所をご存知でしたら
教えていただけませんでしょうか?