「発心」の動機

2006年01月30日月曜日AM | コメント(3) | トラックバック(0)

 日ごろコメントには特にお応えしていなくて恐縮ですが、

ところで忠如さまの『発心』の動機というのはどういうところからだったのですか?

こちらは応えておかないといけないかなと思いますので、少々。

 なお、「発心」とは、辞書的にいえば「悟りを得ようとする心を起こすこと。菩提心(ぼだいしん)を起こすこと。仏門に入ること」。よく聞かれる「なんでそんなこと始めたの?」ということですね。

 そうですね… なんなんでしょう。まぁ、未充足感があったということは確かです。覚えているのは、どこかのCMのコピー「何を夢見てここまで歩んできたのだろう」。そんな問いに立ち止まりました。このままサラリーマンやって、昇給・昇進したなんてプチ喜怒哀楽を繰り返して、健康診断で病気が発見されて入院、んで死ぬんか? みたいな。しょーもない人生だな、と。※「私にとっては」ですよ、以下すべても。

 そこでまず読んだのは、最近も少々ブームのようで書店に平積みになっている新渡戸稲造著『武士道』。「そうだ、サムライ・ハートだ」というありがちな道です。ところが、ゴータマ・ブッダが最初に教えを請うた二人の仙人の瞑想じゃないですが、確かに「その気」になっている時は「サムライ」なのですが、朝から晩まで「サムライ」じゃいれなかったのです、私は。一時的に「仮面」をすりかえて、それで満足し続けることはできなかった。すべての仮面を剥ぎ取った「真の自己」に辿り着きたかったのですねえ。

 『武士道』を読んでいると、仏教、なかでも禅、坐禅というものに遭遇していきます。鎌倉の武士がそもそも臨済宗と近かったですし、近代に入っても山岡鉄舟の「剣禅一如」だとか。良くも悪くも、武士、あるいは昭和の戦争もそうですが、そういった死に直面した人々の精神的基盤をなしてきたものは仏教、なかでも禅でしたから。

 最近は佛大(浄土宗)の先生もこのブログをご覧頂いているので付け加えますと、そもそも現代人が仏教の何らかの行をやってみようと考えるとき、多くが坐禅と思うんじゃないでしょうか。「仏教で何かやってみよう」で念仏に行く若い人はまずいない。ですから、「なんで坐禅に行ったんだ」というのにたいした理由はなくて、仏教の行といえば坐禅しかそもそも私の想定には無かったのです。

 というわけで、思い立ったが吉日の性格なので、「こんちわ」と禅寺の門をくぐって、ほぼ毎朝会社に行く前に坐禅をしていました。2年くらいですかね。

 で、そこで出会ったのが師の南直哉師。会話をしたり、著作を読んだりしながら、「そういうことか」と次第に思っていく。仏教の「縁起」という概念、私が探していた「真の自己」なるものを、むしろ解体させていく仏教がそこにありました。

 で「こりゃー使える」と思っただけです。私が生きていくに当たって、この現象世界を認識していくに当たって、「使えるな、これは」と。ですから、私の仏教に対する想いは、「使える」、それ以上でもそれ以下でもありません。これを利用して生きていこうというだけ。

 もちろん情緒的には恩や情はありますが、それは却って蛇足になりかねない。私にとっては、仏教も、寺も、昔の高僧も、現在の僧侶も、「使える」と思ったものはルールに基づいて取り込み、使わせて頂く、使えないものはどうでもいい、ただそれだけです。

 そんなわけで「発心の動機」それ自体は、たいしたもんじゃありません。ありがちなことです。その意味で、オウム真理教に入信していった者たちと大差ないと思っています。結果的に今日「犯罪者」と言われてしまう彼らと私の違いは、ひとえに縁でありますが、あえて自画自賛すれば、原理的に考えるということじゃないでしょうか。一人のオッサンが言ったことを「信じる」のではなくて、「その言説はどこに根拠があるのか?」「本当なのか?」と疑い深い性格なので、自分の知力の限りを尽くして考察するところが、彼らと現時点の明暗を分けた点なんじゃないでしょうか。

 私は今時点も、ある意味においては、何も「信じ」てはいません。仏教が、私の人生に、今の時点において、「有効」である、というのみです。

※真っ向から「信」を否定しているわけではなくて、それは常に監視、注意しながら使うべきもので、「信」に依存してはいけないんじゃないか、という趣意です。

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コメント(3件)

玄山 徹道 | 2006年1月30日 15:54

忠如様

忠如様も私と同様、曹洞宗で戒をお受けになっておられます。「どれか一つの宗派を選ばなければならない現実」が、現代日本仏教のすがただといっていいと思います。実際各宗派はそれぞれ「自分のところが釈尊の嫡流だ」という意識があるでしょう。
忠如様はそこをどうやりくりされましたでしょうか。私の場合は・・・やはり縁でした。本当は倶舎論が好きです。

因みに曹洞宗ではご存知のとおり、発心(発菩提心)は「己れ未だ渡らざる先に衆生を渡さんと発願し営むなり」(修証義・発願利生)とあります。レベルが高いですよね。

それでは。
             玄山徹道 拝

pumpkin | 2006年2月 1日 21:27

こんばんは。忠如さま。

貴殿の『発心』の発端所以がよく分かりました。

お忙しい中、お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。

       頓首 pumpkin 合掌

りょう | 2006年2月14日 22:36

忠如さん、こんばんは。
以前、南老師についてコメントしたものです。
さて自分にとって、「使えるか・使えないか」、「有効か・無効か」、ということが発心の動機ということですが、ほとんど共感します。おそらくは、釈尊在世時の弟子や信者たちも、それに近い動機だったのではないでしょうか。分別知で使えそうだと判断した上での入門。
ただ、「ほとんど」としたのは、自分にとって「使える」ということを超えて、仏教は普遍性を明示していると思うからです。お邪魔しました・・・

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