平安仏教パラドクス論 & 「只管打坐」は「坐禅のみ」ではない論
2006年01月13日金曜日PM | コメント(1) | トラックバック(2)
「日本仏教史1」「〃2」のレポート、提出しました。直前まで練って宅急便で出すことが多いですが、今回は土日と東京でスクーリングだし、早めに仕上げました。
日本仏教史1(古代):「授業内容を参照しつつ、ひとつのタイトルを選んでその内容を述べよ。」 ※私は「最澄の思想」を取り上げる。
日本仏教史2(中世):「1.鎌倉時代の僧侶を二人取りあげ、思想特質を論述しなさい。」「2.鎌倉時代の仏教の全体像について論述しなさい。」(2題合わせて1600字程度) ※僧侶2名は、明恵と道元に。
いずれも一貫して、平安仏教再評価、鎌倉仏教再解釈論に立って書きました。
「日本仏教史1」は、よく考えてみると、なかなかおもしろいものです。平安仏教は、貴族的、戒・修行の軽視から堕落を招いて鎌倉仏教を勃興させる継起となった。でありながらそれは同時に、鎌倉仏教の基底を支える民衆化、易行化の先鞭もあったというパラドクス。
「日本仏教史2」は、師の目を畏れながらも(笑)、道元禅師のことを書いてみました。課題が2つで1題800字、そこで2名取り上げるのですから1名400字。ワントピックスしか書けません。
けれど、どうしても言っておきたいことがありました。それは、「只管打坐」とは「坐禅のみ」の意ではない、ということ。あえていえば、坐禅の在り様の問題だろうと私は理解しているし、そう理解してはじめて修証一如の意味と繋がってくると思っています。
学会の大勢がどうなのか知りませんが、少なくとも末木先生の本には「ひたすら坐禅のみ」と書いてあります。学校のレポートでは、「私流」を書くのは避けてきていますが、事前に善先生に聞いたところ、そういう意見を入れてもらっていいとのことだったので、書いてみました。
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コメント(1件)
石橋 | 2006年1月14日 11:18
一つ間違えてトラックバック送信してしまいました、すいません・・。着々とレポートやられてるようですね。私の方は、遅々としてなかなか進まず、焦るばかりです。今年はお会いする機会もあろうかと思いますが、宜しくお願いします。
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