日本仏教史、終わる
2006年01月 9日月曜日PM | コメント(1) | トラックバック(0)
日月とかけて、日本仏教史1、2が終わりました。これで2005年度の京都でのスクーリングは終了。14-15の東京スクリーングで、すべて終了となります。
日本仏教史、この2日は充実です。1では仏教伝来~平安仏教(最澄、空海)、2では鎌倉仏教を概観。
祖師方の略歴、思想のポイントといった基礎的な事項を抑えることはもとより、今回もっとも勉強になったのは末木文美士先生のテクストの趣旨でもある、平安仏教再評価つまりは鎌倉仏教再解釈の動向。
ここは善先生の範囲。私の理解した限りで簡単にいいますと、従来、平安仏教を「旧仏教」、鎌倉仏教を「新仏教」と暗に価値判断を含んで呼んできた。前者は貴族相手で難解、後者は民衆的で易行と評価し、鎌倉仏教こそがターニングポイントである、と。
確かに、平安仏教が貴族相手であったことは否めないでしょう。但し、少なくとも思想面において、平安を旧、鎌倉を新とするのは、宗派史的解釈に依るところが大きい。つまり、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗といったものが鎌倉時代に成立したから、そこがターニングだとしているということです。
超宗派的、通宗派的に、末木氏のテクストの副題「思想的アプローチ」を取れば、実はそうではない。鎌倉仏教の基底を支える本覚思想や一切皆成的思想、あるいは民衆化に繋がる在家主義的傾向は、平安仏教がその先鞭をつけたのだ、ということです。前者は“天台”本覚思想はもとより天台・一切皆成vs法相・五性各別の「徳一論争」、後者は最澄の大乗戒壇設立などがその例。
平安仏教をターニングポイントとして今日的受容の基礎を為して、それが専修の傾向を加味して、鎌倉仏教として継承、発展していくのだ、ということになります。
善先生曰く、どうしても仏教研究というと、「前と後」に目が行きがちだと。つまり、ある人を対象とするなら、師を遡ったり、弟子に下ったり。もちろんそれはそれで重要だが、時には「横」に目を移してみる必要がある、と。仰る通りですね。
幸か不幸か、私は潜在的な宗派意識がほぼ無い身ですから、これからも巨視的に仏教を眺めていきたいものですね。
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コメント(1件)
kisaira | 2006年1月10日 22:25
授業、すごく満喫されたみたいですね^^
8.9日、東京のスクーリングで会いましょう♪
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