仏教は「堕落」したのか
2005年12月21日水曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)
『律蔵』関連「仏教学特講3」のレポートは書き終えました。推敲を経て、23日(金・祝)のスクーリングに行った際に提出します。
さてはて、『律蔵』によると、仏教教団は、その初期の段階からかなり「変容」していることが明らかになります。釈尊存命中に既に多くの長者からの寄進があって定住生活をしていたことも考えられる。金銀(貨幣)の布施も出家者自身は触れていなかったが教団としては保有していた。「友よ、来なさい!」で終わっていた受戒も、『律蔵』の段階では既に出家できない条件がある。
こういった話をしていて、授業中に、「それは堕落ですよね?」という学生がいた。正直、私は即イラッとしました(笑) 史実は「変わった」ということで、それを「堕落」と評価するのは貴方の価値判断です。そんなことを授業の場で言うのは辞めましょう。ココロの中でそう思っていれば済むことです。周りに確認する必要もない。
で、私が「堕落」と思うかどうかですが、必ずしもそうは思いません。今回のレポートの私の論旨がそれですが、要するに、出家修行者の仏教教団というのは、自ら生産活動に従事しませんから、在家の布施に全面的に依存しているのですね。社会的理解を得ることが不可欠だった。(インドの話をしてます)
それは教団運営に限らず、思想面においても、釈尊自身が善行による生天を在家に説いていること(教理的には矛盾するはず)、後の時代に「我」を認めぬまま「業」を持ち出してきて輪廻を説明しようとしたことも、同じ理由で説明がつく。
最古層の初期仏典には、「村と適度な距離のある静かな場所に住め」といったような記述があります。午前中のうちに往復できる程度の。行乞(托鉢)に行かないといけませんから人里離れた山奥に篭るわけにはいかない。かといって、修行に適した静かな場所である必要もある。この「適度」さ加減が仏教のバランシングでしょう。
但し一方で、仏教者の立場に立てば、「時代、地域に即した受容」という名のもとに、放逸に、すべてを無茶苦茶にしてしまうのもよくありません。少なくとも、どういう理屈、根拠でそう変えたのか、を説明できないといけないでしょうね。
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