ウインドウフルオープン
2005年11月18日金曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)
>akemiさん ご指摘ありがとう(笑)
かの有名な『法華経』常不軽菩薩品は、どれほど人に軽蔑されても「我、深く汝等を敬う」といって礼拝する菩薩の話です。どんなに不条理な扱いを受けたり、虐げられたりしても、その相手を敬う。それが大乗菩薩の立ち居振舞いということでしょう。
キリストの物語にもありますね。十字架にかけられたイエスが言った言葉は、「神よ、彼らを赦したまえ」。彼らとは、自分を十字架に張り付けまさに処刑せんとしている彼ら。
南伝に伝わる日常の経文の中にも、自分「が」嫌いな人や、自分「を」嫌いな人の幸せを願う文句がありますが、私はこういう気持ちは持っているつもりです。地球上のすべてのひと・ものが、「等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する」(日本国憲法前文の表現)ことを願っているつもりです。なので、ブチ切れの件は、日常娑婆世界の些細なことということで…。
話が長く逸れていく気もしますが、最近、仏教者らしからぬフルオープンな日記を書くことが増えているように思いますけど、ちょっと意識しているところもあります。
なんといいますか、ほんとはタダの人なのに、さも聖人振るようなオッサンだけにはなりたないなー、と思うのですね。
一つ言えるのは、縁あって佛教大学に学んで、浄土門の毛色がちょっと混じりだしているのです、多分。法然上人の有名な“告白”、「ここに予がごときは、すでに戒定慧の三学の器にあらず」。叡山で「智慧第一 法然房」とまで言われた上人が、「俺ごときは、戒律、禅定、智慧の修行(三学)の器なんてねえよ」といって、一切衆生平等往生の道の模索に入っていったのです。謙虚に、誠実に、真摯に仏教に取り組んできたからこそ、ぶち当たる壁、出てくる言葉だと思います。
ほんとは名聞利養で凝り固まっているのに、したり顔で教説を垂れる人、そんなもんだけにはなりたくないなと思うのですよ。それよりも、例えば、とことん自省をした結果、公然と妻帯するまで行き切った親鸞上人の方がリアリティがあるし、信頼もできる。道元禅師だった言っています、「試に吾我名利の当心を顧みよ」。
仏教を概観したときに、インド仏教と日本仏教を連絡させるのはかなり難しいだろうと思いますけれど、唯一外してこなかったテーマは、「どう生きるか」だと思うのですね。真理ではなくて問い、そこが共通で、それ故に、諸方に形を変えながら根付いていったし、一方で簡単に消滅もしてきた。
ライフワークとして接する仏教、生きる礎として接する仏教、それぞれにおいて、私なりの受容の仕方があっていいだろうと思うのです。
これからも、ウインドウフルオープンで書いていきますよ~。志は高く、けれど正直に。
« 前の(古い)ブログ記事 | 次の(新しい)ブログ記事 »
このブログ記事をソーシャル・ブックマーク
コメントする
トラックバック(0件) | http://www.vinaya.jp/apps/mt4/mt-tb.cgi/1386

