「仏教・私流」、『中論』が終わった
2005年10月21日金曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)
南師が「少なくともここまではやりたい」と言っていた箇所が終わりました。2004年1月から、原則月に1回2時間かけて、ようやくここまで来ましたね。
南師と会ったころはもちろん今以上に仏教のことなど分かっていませんでしたが、なんとなく引かれていったのはこの問題についての関心だったのでしょうか。存在するとはどういうことか、ということ。
大学2年生の拙稿として、龍樹の思想に関しては「仏教学ゼミ2」、中観派の歴史については「インド仏教史2」のレポートで書いてきました。おそらく龍樹周りを研究していくことになるんじゃないでしょうか、私は。
龍樹に興味を持たれた方がいるかもしれませんから、挙げておきます。
基本テキスト:中村元 『龍樹』 講談社
文庫ですが、一般にもっとも基本となる書でしょう。中村元博士による、縁起、空、中道思想の解説と、『中論』の全訳がメイン。文献案内もあり、入り口として中核になる本。しかし、私がそうであるように、有部教理の否定、相依の縁起を宣揚という解釈の流れに傾斜していて、若干南師のそれとはずれます。行き着く本質(海)は一緒ですけどね。読んでいく流れ(川)の違いです。
『中論』以外の龍樹の著作 梶山雄一、瓜生津隆真 『龍樹論集』 中公文庫
講義で紹介されていたものがこれです。文庫。『中論』"以外の" 著作の現代語訳です。解説はありません。
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いくつか自分の課題をメモ。
■ 『中論』読解の基本姿勢
『中論』:説一切有部の教理の否定=時間的継起の縁起に代わって相依の縁起を主張→相依の縁起→自性(実体)は無い→空=中道
という流れが私の『中論』理解なのですが、南師は、
『中論』:実体(自性)の否定→空=中道→(どう存在するのか)=関係主義的存在論としての縁起
といった感じでしょうか。
縁起解釈よりも実体否定を基にされていることと、「相依」という言い方より「関係性」に重きを置く。
■ 帰謬論証派と自立論証派の対立理解のポイント
論理学がわからないと話にならない。日常言語的にどうこうとやっているのではなくて、「そういうことにすると論理的に矛盾する」という議論。当時発達した論理学が大きく絡んでいる。
■ 二諦
勝義諦=「最高の言葉で言い表せない真理」。 「それは言葉では言えない、はい終わり」じゃなくて、「言葉で言い続ける人にのみ、言葉で言い続けることの不可能性として現前してくるもの。」 言い続ける、語り続ける。その反動として現れてくる、言葉で言えない部分。
これは目から鱗です。伝わりますでしょうか。
仮に最高の真理を「A」とすると、言葉で「A」を現そうとするけど、それは言い表せないわけですから、「A´」にしかならない。A´A´A´A´A´と、言葉で言い表し続ける人に、どうしても言えない部分として残るのが勝義諦である、ということでしょう。
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