仕事観

2005年05月17日火曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)

 会社の人も見ていると思うので、あまり具体的には書けないのですが、ちょっとだけ。仏教をはじめてから、実は仕事もうまくいくようになったんですね。感覚的にも成果的にも。

 「仕事に興味が無くなった」、これは会社でも公言しております。会社名を言うと比較的ものめずらしい会社なので関心を持っていただけるのですが、プライベートで仕事の話をするのはけっこう辛いです。興味が無いのですもの(笑) 仕事に興味が無くなってからうまくいくというのは皮肉なものですが、仏教も多分に関係していると思いますので書く次第です。

 法華経のエントリーでも書いた表現ですが、仏教の特徴の一つである「自己相対化」です。

 今でこそこんな私ですが、昔は仕事「びじねす」に興味あったのです。仕事こそ我が自己表現だと思っていました(自営業やってれば普通のことですが)。

 それが、有体の言葉でいえば「空回り」ですね。仕事に自己を投影するということは、仕事がうまくいかないと自己がうまくいかないのと同じことになってしまうのです。そうすると「俺はこんなはずじゃない」みたいなことになるんです。

 仏教の自己相対化がどう機能するかというと、「自分と仕事の関係を見る視点」が持てるようになるんだろうと思います。「自分にとって仕事とは何なのか」「自分と仕事・会社はどういう関係にあるのか」、これを冷静に見れる視点。

 よくよく考えてみると、人間、仕事がしたくて生まれてきたわけじゃありません。子どもの頃は誰も「ビジネスが楽しい」なんて言いません。アラブの大富豪に生まれれば「働く」という概念は持ち難いです。

 所詮、「貧乏人に生まれ、残念ながらサラリーマンになるしかない二十数年を過ごしてしまったために辿り付いた先」なんですね。「働きがい」みたいな観念は、ある条件下で後天的に存在することに過ぎないということです。

 そのように冷静に見ると、仕事に自己を投影するなんてばかげたことはする必要はありません。悲しいとか切ないという次元でもないんですね、これは。そういうもんだ、と理解することです。

 だから、「働くのが嫌」ということでもまったくないのです。好きとか嫌いとかそういう問題じゃない。日々の、人生における、単なる一つの局面です。飯を食う為に働く。そのためには、与えられたミッションをよくよく理解して、それを遂行する、そういう気持ちに切り替わるのです。本を読んでレポート設題に答えるのと一緒でしょう。課題は何かを理解して、それに答えることで、ご飯を頂く。

 なぜこんなことを書くかというと、うまく言っている人はいいのですが、世の中、仕事で首をくくる人がいるんですねえ。そこまでいかなくても、自己嫌悪に陥ったり、ストレスで倒れちゃう人。

 ある条件下で起こっているに過ぎない事柄に、絶対的に絶望したりするのは、やめた方がいいと思います。失敗したらそれはそれ。クビになる時はそれはそれ。会社が潰れるときはそれはそれ。返そうと思って借りたお金が返せないならそれはそれ。然るべき手続きで処理すればいいだけのことです。死ぬ必要はありません。

 こういう仕事観になって楽になりました。そして、円滑に進むようになりましたね、私は。そうすると、髪の毛フサフサ、白髪ゼロ、お酒は飲まないのにプクプク腹が太るという健全な状態になります(笑)

 「悩むな、考えろ」というコピーがありましたが、そうだろうなと思います。「悩む」というのは、実は一歩も前進していないことが往々にしてあります。それより、「考え」た方がいいです。「なぜこういう気持ちになるのか」「私にこう思わせる構造はなんなのか」、と。

 扱うテーマのわりには、推敲もせず5分くらいで書いた文なので、乱文乱筆お許しください。

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