浮世のあやふきをさとり、仏道の高貴をしりぬ

2005年03月18日金曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)

浮世(ふせい)のあやふきをさとり、仏道の高貴をしりぬ
(岩波 正法眼蔵(一))

 浮世(うきよ)の危うきを悟り、仏道の高貴を知りぬ。「正法眼蔵」第七 一顆明珠にある一文です。「正法眼蔵」は本棚にあるだけで私には読めないので…、別の本を読んでいて当たった一文です。従って、前後の文脈は考慮していませんが、心に残った一文です。

 浮世を危ういと思うのか思わないのか。そこが分かれ道でしょう。浮世最高と思う人は、それはそれでよろしいことです。私も、24年くらいは浮世最高! と来たのですが、どうも危ないかなと… そしてこうなったわけです。

 「浮世の危うき」、なんとなくぱっとわかる表現ではありますが、具体的にどういうことなのか、何が危うきなのでしょうか。明日の朝、道を歩いていたら上から鉢が落ちてきて死んでしまうかもしれない。一つの「無常」ということでしょうが、そういうことを言っているのでしょうか。

 私は、「無常」をイコール「危うき」と言っているのではないと思うのです。「無常であるのに、それを錯覚すること」が「浮世の危うき」なのではないでしょうか。何がそうさせるのか。それは我々の存在の仕方、在り方そのものです。

 従って「浮世の危うき」とは、我々の在り方の根本的矛盾、構造的欠陥、先日の月例坐禅会での南師の言い方では「分裂状態」のことを言っているんじゃないかと思った次第です。

 まぁ、浮世は危ういかな? と思った人は、どうぞ仏道の高貴を覗いてみてください。

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