自己の解体!?
2005年02月16日水曜日PM | コメント(0) | トラックバック(0)
愚生、2年ほど坐禅をしてきましたが、坐禅中の“できごと”について書いたことはほとんどないと思います。下根故、特に語るようなことは今まで無かったのです。せいぜい、清清しい、気持ちいいくらいで…。そんな私が語るのですから、どうか大目にみてあげてください。
今朝、「うん」と思える感触をはじめて掴んだのです。はじめの一歩を踏み出したかもしれません。
南師は著書中において、坐禅中、聴覚に意識を振り向けることを勧めています。私もそれに従って、目は開けども見ず、呼吸は任せて、意識は音を聞くことに向けています。
今朝、調子の按配が良かったのか、また、小雨が降ってましたら周りの環境も良かったのか、こういうことを言っているのかなぁ…? と思うような感じになりました。
通常我々は、「私が | 音を | 聞く」、 つまり私A(主体)と音B(客体)が独立自存していてこの2つが出会うという構図をとるわけですが、今朝、音を聞くことに深く突入していったところ、「聴覚だけ」、「音だけ」になったのです。「音」、それだけの世界でした。
危険ないい方を承知で言うと、自分という枠組みが消えたのです。自分と非自分(外界)の間の境界(乱暴にいえば「皮膚の境」)が消えるイメージです。気絶したわけじゃないです、クリアなのです。ただ、内と外の区別が消えて、音だけの世界でした。
「おっ、これは?」みたいな思索を凝らし始めた途端に戻ってきてしまいましたが、この「戻る」も、感覚としては自分と外界の間に線をズバッと引いて、自分の枠組みを取り戻した、自分という陣地を決めたという感じです。
今まで学習してきたことと組み合わせると、「空」とは「無」ではありません。手元にないので正確な引用ができませんが、瓜生津『龍樹』では明確に空とは「縁起」、つまり、なにものも他と無関係、独立の本体(自性)はなく、他との関連性において存在する、と書いてあります。例えば、線を引いてはじめて右や左が定まるように。
自他も、本来独立して存在しているのではなく、他を峻別した時に、非他として自が確定されるわけです。う~ん、無自性にして空であるということは、こういうことなのかな~~~~~~~~~~~~~~~~~ぁぁぁと、ちょっと思ったのですが…。師匠に聞いてみます。
ちなみに、仮に私の今日感じたことが無自性空に近いものだとしても、それ自体に価値があるわけではないでしょう。ずっとそのまま坐っていればいい、わけではありませんから。
「自己」とは、ある条件下、他との関連性において立ち上げられる枠組みである。このようなことを体験的にわかった上で、坐禅から立ち上がった後、ではその自己をどう立ち上げるのか。それこそが大切なのでしょう。
これは小さな一歩に過ぎないが、私の歴史にとっては大きな一歩、かもしれません(笑)
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