« 2004年11月 | トップページ | 2005年1月 »
大晦日
今年も終わりですね。29日まで仕事だったので、なんだか実感がありません。あっという間に大晦日です。今日は東京は雪です。都内の積雪の程はどうなんでしょう。私の住まいは東京とはいえ、ど田舎ですので、写真のような一面銀世界です。
年末ジャンボ宝くじを3000円買いましたが、「年末ラッキー賞」という下3桁の賞が当たりました。1万円です。ラッキーです。
今年はこの豪雪、極寒もあり、青松寺の除夜の鐘には行けません。みなさま本年も多々お世話になりました。御礼申し上げます。来年の抱負は、また後日。
インターネット募金
知らなかったのですが、、、Yahoo! でインターネット募金やってたんですね(11月にはじめたようです)。
支払はYahoo!ウォレット、つまり、プレミアム会員費(≒オークション参加費)やYahoo!BBの利用費などと一緒に請求されます。これは便利ですね。
シャンティ国際ボランティア会、スマトラ島沖大地震における緊急支援活動
メールが配信されましたので、転載しておきます。死亡が確認された福岡の女性。勤め先で優秀な成績を収め、報酬旅行でプーケットにいたようです… 切ないですね。皆さん宜しくお願いします。
スマトラ沖地震・津波 義援金受付先
邦人の安否は大分判明したようですが、全死者は2万人を超えるようですね。
Yahoo!ボランティアで義援金情報が掲載されましたので紹介しておきます。
スマトラ地震
とんでもないことになってますね。現時点でもっとも最悪の情報だと、死者1万3千人弱、日本人も570人が安否不明とのこと。
シャンティ国際ボランティア会も緊急救援の動きをするんじゃないでしょうか。
クリスマス・イブ
今日はクリスマスイブですね。六本木ヒルズはカップルがいっぱいいます。
「キリスト教徒でもあるまいし、イエス・キリストの生誕を祝うなんて変だ」という“言い訳”では済まず、私はもはや受戒した仏教者ですから、まったく無関心、どうでもいいです。
年の瀬…
今週末は久しぶりに動きました。
土曜日、バイクを乗り換えちゃいました。YAMAHA DSC4を下取りに出して、それを原資にKAWASAKIのZZ-R400、2003モデル(シルバー)の中古車を買いました。自賠責、税金等全部込みで、差額が20万弱出てしまいましたが…。DSC4もいいバイクだったのですが、“かっこつけて”乗るバイクだったんですよね。ZZ-Rは一見レーサー風の外観ですが、実際にはツアラーというジャンルです。“ストイックな旅人”として、来年は2年ぶりの北海道キャンプツアーを目指します。
そして今日は、青松寺で南師匠の月例・講義でした。今回が11回目、大乗仏教の概観という楽しみなところでした。今後、大乗の主要思想である中観、唯識の解説、そして主要経典の概観とすすむそうです。今年最後になりますが、これほど本格的な仏教通史を、一年を通じて(しかも無料で)聞くことができ、嬉しい限りです。深く御礼申し上げます。
続・GREE
先日紹介したソーシャルネットワーキングGREEに、“青松寺つながり”のグループを作りました。どうぞご参加ください。参加者の紹介が必要ですから私にメールください。道元禅師と天台本覚思想
昨日は案の定 期末なので忙しく、月例参禅会は講話から参加となりました。終わった後、久しぶりに南師匠と話をしました。1時間近くに及んだでしょうか、「根本的生存欲」について(笑)
別の話題として、「道元禅師は天台本覚思想に立脚しているのか否か」という話もさせてもらいました。
ソーシャル・ネットワーキング
遅ればせながら「ソーシャル・ネットワーキング」というものに参加しました。「GREE」というサービスです。
ソーシャル・ネットワーキングとは、一般に、
・既参加者の招待によって参加できる
・ほぼ本名で参加
・友だちとリンクを繋いでいく。ある人が誰と友だちかがオープンにされている。
リアル(⇔バーチャル)な交遊録を、クローズドなネットワーク上に再現したものというカンジです。加えて、出身校、勤務先、趣味・興味、居住地等等の「グループ」が無数にあったり、うまくネットワークができるような工夫もなされています。
どうせ友だちなんか誰もいないんじゃないかと思ったら、けっこういます。青松寺繋がりの人も数人いましたし、私の勤務先のグループには100名を超える登録が…。なんだか、時代に付いていけてないなぁ、という気分になりました(笑)
別に「で、どうする?」というものではなく、いわゆる「人脈」というのを、ネットワーク上に展開して、友だちの友だちは皆友だちだ世界に広げよう友だちの輪、ということなんでしょう。百聞は一件に如ず、ご興味ある方はメール頂ければ招待します(もちろん、知ってる人限定です)。
根本的生存欲の滅
とりあえず過去の書評の移行が完了しました。ほかにもいろいろ読んでいるのですがね、なかなか筆が進まず…。
最近は、もっぱら宮元啓一さんという学者の本を読んでいます。故・中村元博士門下だそうで、現在は國學院大學 文学部 哲学科の教授です(インド哲学)。
ご自身のホームページ
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/pengin.html
『わかる仏教史』
:仏教誕生から日本仏教史まで、仏教通史。
『般若心経とは何か―ブッダから大乗へ』
:表面上は般若心経の解説書ということになりますが、実際は、「菩薩」や「波羅蜜」という概念など「大乗とは何か」ということで、その理解こそが、般若心経をわかる要諦ということになります。
『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』
:最新刊。「ゴータマ・ブッダの仏教」についての氏の集大成。
『インド哲学七つの難問 講談社選書メチエ』
:ただいま格闘中…。
この辺の4冊を読んでいますが、今日はひとまず「ゴータマ・ブッダの仏教」という話題に関して、私が宮元氏から強く印象を受けている点に関して考えてみます。
1. 欲望のさらに元である「無明」(一貫して「根本的生存欲」と説明する)を発見したことがゴータマ・ブッダの独創性且つ天才性である。
2. 瞑想→ダメ、苦行→ダメの後、再び瞑想に入って覚ったという通説は説明が不足している。苦行を捨てた後瞑想に入ったら偶然覚りましたということになってしまう。「覚り」は一瞬にして得たのではなく、苦行をしているあたりからだんだんわかってきていて、最終的に確認するために菩提樹の下で瞑想に入ったと解したほうが適当である。
3. ゴータマ・ブッダはまったくそのまま十二因縁を発見した。
4. 「ゴータマ・ブッダは何を悟ったのか」というのは愚問である。「悟る」は「ブッダ」の訳語であり、これは「目覚める」を本義とする自動詞の派生語である。もともと自動詞であるからして、「何を」という問い自体が間違っている。「何を知ったことによって(by/手段)目覚めたか」という話だとすれば、「輪廻的生存にまつわるすべてを知って」ということになる。
×輪廻的生存にまつわるすべてを悟った
○輪廻的生存にまつわるすべてを知って、ブッダ(目覚めた人)となった
5. ゴータマ・ブッダは根本的生存欲を滅したのである。ということは、業を滅ぼし善悪を超越しているわけで、当然、生存することに意味はない。梵天勧請によって「教育する」という別の目的を受け止めて生き続けただけであって、成道後も修行したということを引き合いに出して「生涯修行をした人間ゴータマ・ブッダ」のように捉えるのは間違いである。成道のメカニズム(輪廻のメカニズムの裏返し)からして、成道をしたらもはや生きている意味はないし、成道(一点ではないが)の前と後は別だと捉えるべきだ。
このうち特に5は大切に考えていこうと思っています。この5に則れば、修証一如のような概念は吹っ飛びます。「覚った」(根本的生存欲の滅)場合はもはや修行を続ける意味はないのです。
ただ誤解なきよう言うと、宮元氏はいわゆる神秘主義的、体験主義的「さとり」を標榜しているわけではまったくありません。終始否定しています。ですから、巷の「さとりました、いっちょあがり」的意味で言っているわけではありません。
根本的生存欲→欲望→業(善悪の行為)→輪廻
根本的生存欲の滅→欲望の滅→業(善悪の行為)の滅→輪廻からの解脱
という構図のもと、根本的生存欲を滅ぼしたら、生きる意味がないのは当たり前です。ジャイナ教で理想とされるように、覚った人は餓死に向かっていくのが正しい流れです。くどいですが、そうじゃないと「根本的生存欲の滅」とは言えないでしょう。「根本的生存欲の滅」でありながら飯を食うってのはおかしな話です。
この意味で仏教とは、「生きようと思うことを根本的にやめること」になります。ですから、スッタニパータなんかを見ると、「成すべきことを成し終えた。もう二度とこのような生存を受ける必要はない。」とかいうような文言が出てくるのでしょう。
じゃぁ忠如くん、あなたが目指しているのはこれか? と言われると難しい話ですね。「根本的生存欲の滅」という言葉、10回くらい言うとその重さが染みてきます(笑) 「根本的な生存しようとする欲が滅する」んですから、在家などあり得ない話です。きわめて、山林で修行しているような人たちの話です。
仏教がここで留まっていたら、世界宗教としての仏教にはならなかったと思います。大衆の要請に応えながら生成発展してきたわけです。但し、ゴータマ・ブッダの、あるいは当時の出家者の、輪廻からの解脱という原点に立ち返ると、こういう非社会的な壮絶なものであったということは受け止めないといけないと思うんです。
その上で私はどう思うかというと、2段階に分けたらいいと思うのです。本来的な仏教の境地は上のような「根本的生存欲の滅」、これこそが「輪廻的生存(苦)からの解脱」です。しかし既述の通り、これだけが仏教だとすれば、仏教が存続する意味はかなり特殊な人々に限られると思うのです。特に現代日本においてはなおさら。
ですから、その前段階として、「輪廻的生存(苦)の受け容れ」。自分の意思と無関係に始まり、思い通りいかず、意思と無関係に終わっていくこの切ない「生」というものを、「受容する」。このあたりが落としどころだと思うんです。
またよく考えます。
ちなみに、南直哉師匠は無明を「(私に言わせれば、いわば、)言語」だと言います。
「言語」と「根本的生存欲」との関係は即答できませんが、ただ南師は、「言語の臨海あたりに行くのが限界で(それが坐禅)、言語を超えるということは想定し得ない。言語を超えたらもはや人間でない。」というようなことを仰います。これは根本的生存欲も近いかなと思うんです。根本的生存欲も、超えたら(滅したら)、それはもはや人間ではないし、現実的にはなかなか想定し得ないわけで… だからゴータマ・ブッダが偉大なわけですが。
うーん、難しい。それでは。
当たり前ながら、私はこう思い、こう解釈した、というだけの話です。宮元氏や、南師の本意と適合している保証はできません。
ap bank
今週は青松寺の月例参禅会、月例講義です。詳しくは青松寺のホームページにて。
今年の2月に始まった月例坐禅会、今のところ皆勤賞なのですが、12月15日は行けないかもしれません。仕事がピークで。もっとも先月は行きましたが定員オーバーで坐禅は満員。講話だけ聞くことになりました。南師匠の新刊が出たばかりでもありますから、かなり込み合うんじゃないかと思います。ご希望の方はお早めに…。
テレビでやってたのですが、「ap bank」http://www.apbank.jp/、なかなかいい取り組みです。櫻井和寿、小林武史、坂本龍一氏らが設立した、「NPO法人に融資するための非営利法人」だそうです。彼らミュージシャンがお金を出し合って、低利(年利1%)で融資しているそうです。ホームページ上で、融資の流れから融資先のレポート等、一切をオープンにしています。
インタビュー中で櫻井氏(Mr.Children)は、「成功したからやってるんではないか? という声もありますが」という意図不明な質問を受けています。当たり前じゃないですかね… 成功したからやってるに決まってるし、適法で、みんなが喜んでるんですから、別にいいじゃないですかね。
櫻井氏は、「う~ん… 否定する気はないです。成功してなかったらやっていないと思うし。」と正直に答えてます。加えて、要は、「報酬が自分の努力や苦労を上回っていて、後ろめたさがあった」というようなことも付け加えてました。なるほど。
“だぶついた”お金は、できるだけ必要としている人に回る枠組みができるといいですね。
災害への「寄付」なんか見ていると、もちろんありがたい話なのですが、年に億を稼いでいるスポーツ選手や芸能人あたりが、100万円とか… 正直、結構しょぼいですよね。やっぱり人間、「あげる」というのはなかなか難しいものです。
ところが、「貸す」という話だったら変わります。世の中、「投資」にはとてつもない金が動くわけですから。ちょっとばかりリターン(金利)は低くても、融資対象を厳選してリスクを減らし、世のため人のためになっているというハートの部分も含めれば、けっこう可能性はあるんじゃないでしょうかね。
日本の志あるお坊さんや仏教者のお金をファンドにして、東南アジアで勉強しているお坊さんを助成をするとか。その代わりに、日本に招いていろいろ教えてもらったり、こっちから行ってむこうの修行生活を体験させてもらったり…。おもしろそうですね。
『禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか』
『禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか』
ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア/著、エィミー・ルィーズ・ツジモト/訳、光人社、2,600円(税別)
現在、仏教各宗派のホームページでも見てみれば、そこには平和を願う声明だとかがたいがい掲載されている。仏教というのは、他の一神教と比べても、おおよそ平和的なものであると少なくとも私は思っていた。五戒の第一に掲げられる「不殺生」は、命あるものすべてに対する不殺生である。
しかしながら、伝統仏教教団には悲しい歴史的事実がある。日本が帝国主義、軍国主義を歩む過程で、仏教、なかんずく「禅」は、その精神的支柱を成してきた。敗戦まで一貫しての、“全面的な戦争への協力”である。鈴木大拙が、澤木興道が、原田祖岳が、あるいは数々の宗門のトップが… 高名な僧が、今となっては信じられないような戦争協力、大日本帝国賛美の言葉の数々を遺している。
内山愚童、新興仏教青年同盟など、戦争に公に反対した者は弾圧を受け、時代の闇に葬られた。そう考えると、現代に繋がっている宗門、宗派というのは、戦争に“全面加担”してきた残党といっても悲しいかな過言でないのかもしれない。
本書は明治時代の幕開けから終戦にいたるまでの悲しいこの歴史を、自らも曹洞宗に僧籍を持つ著者の、「今後も命ある限りこのテーマに取り組んでいく」と言うよう、ライフワークの集成である。英語版では続編も出ているようだ。内容に関しては、仏教、禅の教理、用語について、解説なしに用いているので、それなりに仏教に習熟している人でないと読み難いと思う。
私にとっても、これらの歴史的事実を直視し、なぜこのような誤りを犯してしまったのかを考察するとともに、自らの仏教徒としての志をあらたにしていきたと思う、大変重要なテーマである。また日本が、軍国主義、帝国主義とは言わないまでも、いわゆる戦争に関わることとなった時に、現代の仏教教団、仏教徒が、どのような態度をいったい取るのか、たいへん考えさせられる書であろう。
『日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか』
『日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか』
小室直樹/著、徳間書店、1,800円(税別)
京都大学理学部数学科卒、東京大学大学院法学政治学研究科修了、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学留学などの多才な著者が、極めて論理的、客観的に、キリスト教、仏教、イスラム教、儒教という4つの宗教について、巧みに比較しなが記した本格的な宗教原論書。
仏教の中の「空」思想に深く踏み込んだ箇所が一般には難解であるが、それ以外は極めて(論理的、客観的という意味で)わかりやすく、且つ本格的である。
自らが特定の宗教を信仰しない人でも、世界の歴史を飲み込むに、あるいは、国際情勢を眺めるに、現代人にとって必読の宗教原論書と言えるであろう。
※旧コンテンツの移行。
『やさしい唯識―心の秘密を解く NHKライブラリー』
『やさしい唯識―心の秘密を解く NHKライブラリー』
横山紘一/著、日本放送出版協会、920円(税別)
仏教の基本教学で、世界に通用する心理学であるが、一方で難解であるとされる唯識学を、文字通りやさしく解説している。
NHKテレビで半年にわたって放映されていた番組のガイドブックをもとに、作成された本であるだけに、確かに“やさしいの”ではあるが、テレビの放送というのは、過去の放送を観ていなかったとしても、それなりに話が通じるようにできているのであろう、話が章をまたいで重複することが多く、A→B→C という論理展開が不明瞭な気がする… なんて立教大学教授にそんなこというのは畏れ多いが、ちょっと私とは相性が良くないのかもしれない。
ただし唯識というものが一通りわかったのは確かであるし、現代の本であるので内容も身近である。オススメの入門書とはまだ言い切れないが、よい本ではある。
『龍樹 講談社学術文庫』
『龍樹 講談社学術文庫』
中村 元/著、講談社、1,470円(税込)
「空」の思想を哲学的、理論的に基礎づけ、大乗仏教の思想を確固たるものとした龍樹(ナーガルジュナ)について中村元氏が書いたもの。
構成は、「ナーガルジュナの生涯」として龍樹の生涯を概観した後に、「ナーガルジュナの思想」として「空」「縁起」「中道」などを、ナーガルジュナの主著「中論」をもとに解説する。その前置きとして、対立する「説一切有部」の思想にも頁を割いている。そして最後に、主要著作の全訳もあり、一般向けにはナーガルジュナ研究の決定版ではなかろうか。
「中観思想」というものに触れてみようと思い読んでみたのだが、どうも今の私には、観念的な話が多過ぎて難しい。が、中論の中心思想は「縁起」であるとし、その「縁起」は、時間的継起関係ではなく、「相依性」(相互依存関係)であるといい、結局、「縁起=空=無自性」という話になるのだが、非常に思想的には大切な話だと思う。この「相依性」としての「縁起」をもって、「無常」「無我」「十二因縁」といった基本教説についても説明されている。
学が進むにつれて何度も読み直し、いつかはわかるようになりたいと思う。
※旧コンテンツの移行。
道元禅とは何か―正法眼蔵随聞記入門 第1巻~第6巻 (遠藤誠/著、現代書館 ※第6巻のみ遠藤誠、紀野一義の共著)
『道元禅とは何か―正法眼蔵随聞記入門 第1巻~第6巻』 遠藤誠/著、現代書館 ※第6巻のみ遠藤誠、紀野一義の共著、各2,800円(税別)
道元禅師の著書としては世界最高の哲学書とも言われる『正法眼蔵』が著名であるが、同時に世界で最も難しいとも言われる。一般に“本を”書くぞーと思って書いたものは、難しくなる。
それに対して『正法眼蔵随聞記』は、「聞くに随(したが)って記す」とあるように、道元禅師が弟子らに語った話を、弟子懐奘(えじょう)が編纂したものであり(一部異説あり)、生の言葉を中心に、比較的分かりやすい内容で道元禅師の教えを学ぶことができる。
本書はそれを、帝銀事件の平沢貞通、連続ピストル射殺の永山則夫、暴対法反対など、数々の事件の弁護を担当、平沢が獄死した際、刑務所の門前で「この権力犯罪のうらみは、ぜったい晴らす」と叫び、常に権力に立ち向かい続けた怪物弁護士 遠藤誠氏が、全6巻、第1巻刊行から実に15年の歳月をかけて執筆した。なお、第6巻執筆中の2002年1月、遠藤氏は72歳で他界し、遠藤氏の師である紀野一義氏にバトンタッチして、全6巻は完結した。まさに氏の仏教活動の集大成といえる本である。
「随聞記」の1文1文を、氏が生きた言葉で解説し続ける、「随聞記」最高の解説書であろう。

孤高の禅師 道元 日本の名僧 (中尾良信/編、吉川弘文館)
『孤高の禅師 道元 日本の名僧』 中尾良信/編、吉川弘文館、2,730円(税込)
書名通り道元禅師にスポットを当てた合計9名による論文集。南直哉老師も「因果」に関する文を寄せているので買ってみた。
率直にいって私如きには難しい。各執筆者がそれぞれのテーマで書いているので、書を通じて一貫した内容になっているわけでもなく、初学者には難しいのではないか。専門家の研究成果発表の場的な感がある。
編者でもある中尾良信師が書く道元禅師の生涯は、従来のお決まりのストーリーに疑義を呈すなど、なかなか面白い。が、しばし本棚に飾っておく本となった。

NHKスペシャル『ブッダ 大いなる旅路』シリーズ
NHKスペシャル『ブッダ 大いなる旅路』シリーズ
NHK「ブッダ」プロジェクト/編、日本放送出版協会、各2,100円(税込)
『仏典をよむ1 ブッダの生涯』が、仏典をもとにしたブッダへのアプローチであれば、このシリーズは現地ルポタージュや考古学的なアプローチでブッダに迫るものである。
第1巻では、仏教の興った地、インドでの取材を通じて、ブッダの誕生、出家、成道、入滅を概観する。豊富な写真やインタビューを交えて、宗教というより歴史的人物としての人間ブッダに迫っている。
仏教いうものが他との関連性において、いかに興り発展していったのか、客観的に概観するにはオススメである。豊富なインドの大地の写真を眺める旅に、一度訪れてみたいと思ってしまう。
昔の日記を移行
やっとこのブログの仕組みにも慣れてきたので、昔の日記の移行をぼちぼち始めました。一つ一つ手動なので、いつまでかかるのやらというところですが、仏教に興味を持った一人の子の歩みですかね。とっておくとなかなか将来面白いことになるんじゃないかと思います。
新しいものからやると飽きるので、古いものからコピーしてます。右側の「月別アーカイブ」から辿れます。私の場合、昔書いたものを見ると、百発百中で恥ずかしいことになります。謙虚と生意気が同居している性格で、ものごとに対してはその時なりに謙虚に真摯に取り組むのですが、同時に、その時その時なりに「これだ!」みたいなことを自分の中で作りあげてしまい、なお且つ表にも表現してしまうのです。一方で、後に間違いは間違いと認めるところはまた謙虚であるわけですが。
というわけで、とても同じ人間が言っているとは思えないようなことが書かれています。身心は我に非ず、自ら五蘊非我を実証しています(笑)
そんな中、昨年8月1日の日記、南直哉師にはじめてお会いした時の日記は、なかなか新鮮ですね。必然なのか偶然なのかわかりませんが、あのタイミングではじめてお会いして、その後いろいろと話をし、触発されて学び、受戒をし… 法縁というのはこういうことを言うんでしょうか。
「仏教とはブッダの教え、ブッダの言葉に触れてみる」
南直哉師匠が青松寺のホームページ上でアドバイスを語られています。けっこう珍しいことですね。
http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/sanngaframepage.html
自主的に受戒している28歳というのも珍しいのか、周りから仏教のことを聞かれることがあるのですが、南師のいうように 「仏教とはブッダの教え、ブッダの言葉に触れてみる」というのは本当に強調したいですね。
私は正直、しばらく前から、大乗非仏説、大乗仏教は仏の説に非(あら)ず 、と思っています(※無論、ここでの「仏」は歴史的人物としてのゴータマ・ブッダですが)。輪廻の原動力を修行により滅ぼして解脱しようとする初期仏教と、波羅蜜によって自利も利他も成就させようという大乗の構造は、どう贔屓目に見ても別物だと思います。
ただ、だからといって、大乗を否定しているわけではありません。大乗仏教が生まれ隆盛していく過程は、2000年以上の歳月をかけたダイナミック&エンスージアズムな歴史です。私はそこに人類の普遍的な叫びを感じますし、また後代、大乗仏教とゴータマ・ブッダを繋ごうとする天才たちの格闘もすごいものがあります。
いずれにしても、ゴータマ・ブッダは何をやり、何を言ったのかということを明らかにしようとするのが、仏教という以上、正常な姿勢だと思うのです、私は。その上で、あるいは並行して、自らの置かれた環境や、南師の言う「テーマ」に応じた、その人なりの仏教を構築していければよいと思うのです。あえていうなら、前者は学問的営みで、後者が宗教的営みなんでしょうかね。
前者が無い状態で突っ走ると、どうも変な方向にいってしまうんじゃないかと。
念のため、師匠に大乗は仏説に非ずと叩き込まれたわけではありませんよ(笑) 師がどのようにお考えかはわかりません。私のわずかな知識の中で、そう思うだけです。
仏教はライフワーク
12月8日は真珠湾攻撃の日であったり、ジョン・レノンの命日であったりするのですが、それはともかく、ゴータマ・ブッダ成道の日です。身の回りもほぼ整い、再び仏道に取り組める環境になりました。
ところでこれまで、私にとっての仏教は「ライフスタイル」(生活様式)だと捉えてきました。「生きるテクニック」という表現と並んで、南直哉師匠の表現です。これをじゃっかん修正しようと思います。なんて… 別にそれほど大げさな話でもないのですが、私にとっては「ライフワーク」という表現の方がより適当だろうと思うのです。
ライフスタイルと安易に言ってきましたが、私のような在家の場合、実際にはかなり難しいと思います。本読んだり、坐禅組んだり、お寺を訪れ、“かじっている”程度で満足している内はともかく、元来の仏教、ゴータマ・ブッダが狙ったものを探れば探るほど、安易に「生活に取り込む」とは少なくとも在家の身では言えません。ライフスタイルという捉え方の否定ではなく、これは相当に難解で覚悟のいる言葉であることに気が付きました。
さて、ライフワークという表現ですが、これは「ライフスタイルとすることに憧れつつもなかなかそれは難しいので、せめてワーク(研究)として生涯携わっていこう」という意味です、消極的には。
一方、積極的には、やはり私はもともと良くも悪くも合理主義者なのです。リーズナブル、理に合ってないことにはどうも付き合いきれません。仏教を信仰しているかと問われても困ります。信仰の対象が不明瞭です。「仏教を」を「仏の教え(=法)を」と語義通り解したとしても、“信じ仰ぐ”ということではなくて、「同意」「納得」「俺もそう思う」ということに過ぎません。「なんかわかんないけど信じてますっ!」ではなくて、「おいらなりに、ありったけの知性でもって判断して、そうだと思うから信じてるだけです」ということです。ですから、自ら一ブディストでありつつ、多分に学問的に仏教に接してきたつもりですし、今後も一層そうであろうと思います。
そんなわけで、少なくとも在家でいる限りにおいては、私にとって仏教はライフワークです、と言うことにします。
五洋建設社長が自殺=本社ビルから飛び降り-「許して下さい」と遺書・東京
五洋建設社長が自殺=本社ビルから飛び降り-「許して下さい」と遺書・東京
東証一部上場企業である五洋建設の社長が、本社ビル社長室の窓から飛び降り自殺というニュースが入ってきました。このニュース、私が注目したのは、社長の遺書です。
勝手なことでご迷惑をお掛けします。前代未聞のことですが、何とぞお許しください。長い間お世話になりました
「前代未聞のことですが」の部分。この社長、自分がこれからしようとしていることの社会的位置付けが分かっているのです。きわめてクリア、明晰な状況で自殺したんじゃないでしょうか。
この社長の自殺に居合わせたら何を語るのかを考えます。「命は素晴らしい」「大切だ」「生きていればいいこともある」「親からもらった身体」…。およそそんなことは、とうに考え尽くしているはずです。いろんなことを考慮、判断して、「死ぬことに決めた」わけです。この人に何を語れるのでしょうか。
仏教戒律上、自殺は禁止です。教唆も。しかし、論理的な説明は難しいと私は思います。考えに考え抜いて、「いっちょここは死ぬぜ!」という結論はあり得ますし、それが即座に間違いであるといえる論理的理由はありません。「生きるぜ!」も「死ぬぜ!」も、理屈抜きの決め事に過ぎませんからね。生きることが良くて、死ぬことが間違いだ、とする理由を見つけるのは困難です。
自殺を肯定しているわけじゃないですよ。ただ、「命は素晴らしい」みたいなもの言いは、無意味だと言いたいのです。人は、命が素晴らしいと納得したから生きてるんじゃありません。ただ生きてるだけです。「死ぬべからず、生きるべし」ではなく、「死ぬまい、生きよう」に過ぎません。せめて言えるのは、「生きようと決めたその命は、素晴らしい」、といったあたりだと私は思います。
曹洞宗 萬年山 青松寺
私が仏道を歩む機会を与えて頂いたお寺。師匠の南直哉師は青松寺獅子吼林サンガの主幹として招かれている。
江戸時代には曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられた名刹で、寺中の獅子窟僧堂は後の駒澤大学へと連なっていく。先代の喜美候部継宗師は西麻布長谷寺の監院、永平寺の副貫主、僧堂の堂長を勤めた方だそうだ。沢木興道師の『学道用心集講話』には、大きなお寺のお坊さんの譬えで「青松寺の方丈さん」という表現がでてきたりもする。
関東大震災や大戦で壊滅したらしいが、港区や森ビルによる愛宕地区再開発事業の一環として、2002年11月復興した。両脇には森ビルのツインタワーがそびえたつ中、僧堂を擁する都内屈指の近代的なお寺に蘇っている。
現住職 喜美候部宗一師によって、仏教ルネッサンス塾、ボーズビーアンビシャス、写経の会、お袈裟を縫う会、獅子吼林サンガの復興など、多数の取り組みがされている。私は、師はたいへんな人格者だと思う。普通なら“アグラ”をかいてもおかしくない環境でありながら、まったくそういうところが見受けられない。おそらく、現代における「お寺」なるものの在り方に対する先鋭な問いがあるのであろう。「危機感」とでもいうべき。神谷町という大都会も影響していると思う。周りは「This is 現代」だ。否応無くその条件の下で、お寺というものを展開していかなくてはいけない。現に話していて感じた印象として、師は「今の人たちに何が受け容れられるか」という視点で考えている。押し売りはしない。
坐禅も、原則的に9時~18時までいつでも受け付けている(事前に電話で連絡を)。そんなお寺はどこにもない。小さなお寺は住職がいなかったら出来ないので仕方ない。大きなお寺になるとルール優先で決まったスケジュール以外は受け付けてくれなくなる。「随時」と看板を掲げて、しかも本当に「随時」できるからすごい。
今後も開かれた場を提供しつづけて頂きたいものであります。
<参考>
駒澤大学の歴史
大人の遠足 愛宕山編
『やさしい「禅」入門』
『やさしい「禅」入門』
立松 和平/著、南 直哉/著 ほか、新潮社、1,365円(税込)
私の師匠である南直哉師の、立松和平氏との共著による新刊です。新潮社ホームページでの紹介はこちら。
「坐禅の章」「修行生活の章」「精進料理の章」「道元思想の章」の4章から成り、巻末には坐禅ができるお寺リストがあったり、コラムで道元禅師の年表、著作案内があったりする、いわゆるムック形態の本です。買ってきましたが、さすが新潮社!? 上質な紙、カラー写真をふんだんに使った豪華な装丁です。これで1,300円ちょっととはリーズナブル。
南師匠も写真付きで語ったり坐禅指導をしています。南師匠の「文字」は大量に見てきましたが、写真は珍しいですね。
坐禅という「行」、修行という「ライフスタイル」、「精進料理」、「思想」という、とっかかりの人が興味を持つであろう矛先をカバーした良書です。必携です!