「五蘊盛苦」と「生苦」
2004年08月21日土曜日AM | コメント(0) | トラックバック(0)
8月2日からはじまっていた「毎日最低1回座禅を組む」が、20日に崩れてしまいました。18連勝でストップということになります。というのも久しぶりに会社の同僚と遅くまで食事をし、カプセルホテル泊となってしまいました。まぁ、18勝1敗なら優秀な方ではないでしょうか。今日からまた続けていきましょう。
さて、久しぶりに遅い時間まで街中にいて、しかも週末でしたから、まぁそれはそれは眼に入ってくるものは欲望を起こそうとするものばかりです。最近、そういうケースに出くわした時に私がやること、「下を向く」んです(笑) 別にその、おかしくなったわけじゃないですよ。もともと煩悩が人一倍多い身ですから、いろんなものを“見過ぎる”と、ソワソワしてしまうんです。その欲望に任せると、ろくなことにならないことをよく分かってますので、自己防衛の為にそうしているだけです。
さて、「五蘊(陰)盛苦」(ごおんじょうく)という語があります。「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の四苦と、愛する者とも離れねばならない「愛別離苦」、逆に会いたくない者とも会わねばならない「怨憎会苦」、求めても得られぬ「求不得苦」、そして最後にこの「五蘊盛苦」、これら計8つの苦が、仏教が分類する「四苦八苦」です。
さてこの中でどうも説明が分かれるのが、「生苦」と「五蘊盛苦」です。
「生苦」を、「生まれる時に狭い産道を通過する苦しみ」と真顔で説明するものがかなりあります。「生苦」をそう解釈する場合、だいたい、「五蘊盛苦」は「(そもそも)生きていることが苦しみだ」ということになっています。
ただ、私はそうは解釈しない、できないのです。今日はちょっとその考えを書いてみます。
確かに産道を通るのは苦しいかもしれませんが、しばらくすればその苦しみは忘れてしまいますし、いずれにしても“二度と訪れない”苦しみなわけです。「生苦」の「生」を狭義に「誕生」に解してしまうと、8つの内の1つ、貴重な12.5%が、これからの人生において“絶対に遭遇しない”無意味なものになってしまいます。
また、「誕生の苦しみ」だとするなら、後世の「四門出遊」のエピソードの冒頭にくるべきだと思うのですよ。東に老人を見て、南に病人を見て、西に死人を見て、最後に北に出家者を見て出家したというものですが、まずはじめに「お産を見て…」というものが付加されていてしかるべきだと思うんです。それが付加されていないということは、「生苦」の「生」は、人生の時系列としての「誕生」のことではないと思うのです。
もう一つ、そもそも、ゴータマ・ブッダのいう老病死苦を中村元氏訳の経典に求めると、以下のようなものとなるのです。
「じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった」
ブッダのいう老病死苦は、単なる「年取るの嫌だな」「病気になるの嫌だな」「死ぬの嫌だな」という話ではないんです。いずれも、「自分もいずれは間違いなくああなるのに、さもそれを忘れ、他人をみて嫌悪する“人間の愚かさ”」を指摘したのです。これに則ると、「自分も狭い産道を通ってきたのに、さもそれを忘れ、お産の姿を見て嫌悪する」というわけのわからん話になります。
このような理由から、私は「生苦」こそが、他の苦を包含して、「(そもそも)生きること自体が苦しいのだ」という意味だと考えます。
さてそうすると、「五蘊盛苦」はどう解釈するか。こちらは文字通り「五蘊が“盛ん(さかん)であるが故に”苦しい」と解釈した方が、私には分かりがいいです。
「五蘊」とは、「色蘊」(身体、物質)、「受蘊」(感受作用)、「相蘊」(識別作用)、「行蘊」(感受・識別・判断以外の作用)、「識蘊」(判断作用)のことで、我々を分析してこの5つとしたわけです。これらが“盛んであるが故に”苦しい。
何かを感受して、識別して、記憶だとか様々な作用が働き、そして判断する、こういう機能が盛んだからこそ、(「五」の意味は違うにせよ「五体満足」のように一般にはこういうことが良かれとされますが、かえって)苦を引き起こす、ということだと思うのです。
冒頭の話に戻して低レベルに喩えますが&各蘊との対応は曖昧ですが、感受作用(眼だの鼻だの)が盛んであるが故に、六本木の街をうろつくと“物”が見えてしまう、識別作用が盛んであるが故に、その“物”をキレイなオネエちゃんだと識別してしまう、記憶だとかそういった作用が盛んであるが故に、そのオネエちゃんと遊ぶと楽しいと思ってしまう、判断作用が盛んであるが故に、「よしナンパしよう」ということになってしまう。そうして、失敗して苦しむのです。(ナンパは10年くらいしていません、“たとえば”の話です)
こう考えると、もろもろの機能が“盛んであるが故に”苦しい、ということは多々あると思いませんか。最初からまともに機能していなかったら、思いすらしないわけですから。金欲、名誉欲、性欲… いずれも我々が“盛ん”であるが故だと思います。
また、このように「五蘊盛苦」を捉えると、「愛別離苦」と「怨憎会苦」が対(つい)、「求不得苦」と「五蘊盛苦」が対になって、構造的にもキレイになります。求めても得られぬ苦しみと、求めてないのに(盛んであるが故に)得ようとしてしまう苦しみ、と。
そんなこと言うなら、五蘊をダメにしてしまえばいいのかというと、私のような凡人には、なかなかそうもいきません。そういうことをいろいろと考えると、そもそも存在する、生き続けるということは、なかなか大変なことですね、それを「生苦」と私は考えています。
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