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「五蘊盛苦」と「生苦」
8月2日からはじまっていた「毎日最低1回座禅を組む」が、20日に崩れてしまいました。18連勝でストップということになります。というのも久しぶりに会社の同僚と遅くまで食事をし、カプセルホテル泊となってしまいました。まぁ、18勝1敗なら優秀な方ではないでしょうか。今日からまた続けていきましょう。
さて、久しぶりに遅い時間まで街中にいて、しかも週末でしたから、まぁそれはそれは眼に入ってくるものは欲望を起こそうとするものばかりです。最近、そういうケースに出くわした時に私がやること、「下を向く」んです(笑) 別にその、おかしくなったわけじゃないですよ。もともと煩悩が人一倍多い身ですから、いろんなものを“見過ぎる”と、ソワソワしてしまうんです。その欲望に任せると、ろくなことにならないことをよく分かってますので、自己防衛の為にそうしているだけです。
さて、「五蘊(陰)盛苦」(ごおんじょうく)という語があります。「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の四苦と、愛する者とも離れねばならない「愛別離苦」、逆に会いたくない者とも会わねばならない「怨憎会苦」、求めても得られぬ「求不得苦」、そして最後にこの「五蘊盛苦」、これら計8つの苦が、仏教が分類する「四苦八苦」です。
さてこの中でどうも説明が分かれるのが、「生苦」と「五蘊盛苦」です。
「生苦」を、「生まれる時に狭い産道を通過する苦しみ」と真顔で説明するものがかなりあります。「生苦」をそう解釈する場合、だいたい、「五蘊盛苦」は「(そもそも)生きていることが苦しみだ」ということになっています。
ただ、私はそうは解釈しない、できないのです。今日はちょっとその考えを書いてみます。
確かに産道を通るのは苦しいかもしれませんが、しばらくすればその苦しみは忘れてしまいますし、いずれにしても“二度と訪れない”苦しみなわけです。「生苦」の「生」を狭義に「誕生」に解してしまうと、8つの内の1つ、貴重な12.5%が、これからの人生において“絶対に遭遇しない”無意味なものになってしまいます。
また、「誕生の苦しみ」だとするなら、後世の「四門出遊」のエピソードの冒頭にくるべきだと思うのですよ。東に老人を見て、南に病人を見て、西に死人を見て、最後に北に出家者を見て出家したというものですが、まずはじめに「お産を見て…」というものが付加されていてしかるべきだと思うんです。それが付加されていないということは、「生苦」の「生」は、人生の時系列としての「誕生」のことではないと思うのです。
もう一つ、そもそも、ゴータマ・ブッダのいう老病死苦を中村元氏訳の経典に求めると、以下のようなものとなるのです。
「じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった」
ブッダのいう老病死苦は、単なる「年取るの嫌だな」「病気になるの嫌だな」「死ぬの嫌だな」という話ではないんです。いずれも、「自分もいずれは間違いなくああなるのに、さもそれを忘れ、他人をみて嫌悪する“人間の愚かさ”」を指摘したのです。これに則ると、「自分も狭い産道を通ってきたのに、さもそれを忘れ、お産の姿を見て嫌悪する」というわけのわからん話になります。
このような理由から、私は「生苦」こそが、他の苦を包含して、「(そもそも)生きること自体が苦しいのだ」という意味だと考えます。
さてそうすると、「五蘊盛苦」はどう解釈するか。こちらは文字通り「五蘊が“盛ん(さかん)であるが故に”苦しい」と解釈した方が、私には分かりがいいです。
「五蘊」とは、「色蘊」(身体、物質)、「受蘊」(感受作用)、「相蘊」(識別作用)、「行蘊」(感受・識別・判断以外の作用)、「識蘊」(判断作用)のことで、我々を分析してこの5つとしたわけです。これらが“盛んであるが故に”苦しい。
何かを感受して、識別して、記憶だとか様々な作用が働き、そして判断する、こういう機能が盛んだからこそ、(「五」の意味は違うにせよ「五体満足」のように一般にはこういうことが良かれとされますが、かえって)苦を引き起こす、ということだと思うのです。
冒頭の話に戻して低レベルに喩えますが&各蘊との対応は曖昧ですが、感受作用(眼だの鼻だの)が盛んであるが故に、六本木の街をうろつくと“物”が見えてしまう、識別作用が盛んであるが故に、その“物”をキレイなオネエちゃんだと識別してしまう、記憶だとかそういった作用が盛んであるが故に、そのオネエちゃんと遊ぶと楽しいと思ってしまう、判断作用が盛んであるが故に、「よしナンパしよう」ということになってしまう。そうして、失敗して苦しむのです。(ナンパは10年くらいしていません、“たとえば”の話です)
こう考えると、もろもろの機能が“盛んであるが故に”苦しい、ということは多々あると思いませんか。最初からまともに機能していなかったら、思いすらしないわけですから。金欲、名誉欲、性欲… いずれも我々が“盛ん”であるが故だと思います。
また、このように「五蘊盛苦」を捉えると、「愛別離苦」と「怨憎会苦」が対(つい)、「求不得苦」と「五蘊盛苦」が対になって、構造的にもキレイになります。求めても得られぬ苦しみと、求めてないのに(盛んであるが故に)得ようとしてしまう苦しみ、と。
そんなこと言うなら、五蘊をダメにしてしまえばいいのかというと、私のような凡人には、なかなかそうもいきません。そういうことをいろいろと考えると、そもそも存在する、生き続けるということは、なかなか大変なことですね、それを「生苦」と私は考えています。
終戦記念日に寄せて
さて、8月15日は59回目の終戦記念日でした。
私は「二大政党時代」におさまらないマイノリティーになってしまった昨今ですが、徹底した無条件の反戦、非戦論者です。不殺生戒を受ける身として当然ですが、仏教者となる以前からそうです。
その理由は、別に、「戦争は悲惨だ」とか「戦争は哀しい」とか、そういうことではないのです。国を愛するが故、二度と戦争はしたらいかん、と思っています。
シンプルな「戦争は悪だ」説は、もちろん私もそう思いますが、この一点張りで押し通すと、どうも消化不良になることがあります。それは、ついぞ60年前の、私の爺ちゃん、婆ちゃんはじめとする我々の祖先をどう扱うのか、ということです。例えば、有名な神風特別攻撃隊の遺書を眺めると、以下のような言葉が並びます。
私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
潔よく散るのみです。目標は正規空母です。
沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。
このような言葉の数々を、どう捉えるのか。軍部に騙され、洗脳された、「アホでマヌケな日本人」として捨てられるのか。私はとてもそうはできません。彼らは皆、「おかあちゃーん」と叫んで敵艦に突っ込んでいったとも聞きます。母の胸に返りたかったのでしょう。「公」には国家に身を捧げるといい、「私」ではさぞや辛く、哀しく散っていったのでしょう。その「矛盾」は「嘘」ということではありません。彼らは、自らが生きた環境、時代において、その「矛盾」を生き抜くしかなかったのでしょう。
私は以前、同僚のアジア出身者に、「日本の戦争のことをどう思っているか」と問われました。「アジア諸国に申し訳ないことをしたことは詫びる。けれども、当時の日本人は、彼らなりに必死に生きたんだ。私はいかなる戦争も肯定しないが、私の祖先を否定することもしない。私は当時の日本人の孫だ。彼らが流した血の歴史を受け止めて生きている。」と返事しました。あまり満足していないような表情をしていましたね。けれども私はそう答えるほかありません。
ここで言う「受けとめる」とは何か。「肯定」ではありません。「讃美」でももちろんありません。言葉にするのは難しいです。沈黙にしかなりません。けれども、受けとめた上で向う先は、「二度とそのような悲劇を起こさない」ということに他なりません。彼らにも愛する異性(ひと)、家族、将来の夢、希望があったに違いありません。冷静になれる猶予があったなら、「なぜ俺はこんな時代に生きてしまったのか」と問うたのではないでしょうか。けれどもどうすることもできませんでした。今、彼らと話せば、「どうかもう二度とあのような悲劇は起こさないで欲しい」と言うのではないでしょうか。
さて、幸か不幸か、日本は戦争に負けることで、「平和」を手にしました。あの時、日本は、「もう戦いません」「武器すら持ちません」と誓ったのです。仮にそれが押し付けられたものだとしても、多くの国民は歓迎したわけです。そして50年余り、まがりなりにも誓いを守ってきました。
それが昨今、この有り様です。時代は変わるものです。国民の総意として、再び武器を持ち、異国の地で戦おうというなら、それはそれで仕方ありません。マイノリティーとして静かにしています。けれども、誇り無き政治家の独断で、なし崩しに先祖が立てた誓いを破っていく。これはどうにも許せません。今の日本を見て、あの戦争で亡くなった300万人はどう感じるのか。どのツラを引っさげて、靖国神社に参拝するのか。そういう意味で、私は腹立たしく思います。
他国に白い眼で見られ、金だけかと言われ、アメリカと不仲になり少々不便になるでしょう。それらをすべて含んだ上で、「ごめん。俺らは戦争はできないんだ。」と言うべきだと私は思います。人類史上、未だ、唯一の核被爆国です。“誤爆”どころの騒ぎじゃありません。街のど真ん中に原子爆弾落とされたのですよ。加害者としても、被害者としても、戦争の哀しみをよく知っている国じゃなかったでしょうか。
私が大人である間に、後世の子どもたちが戦争の悲劇に遭うかもしれない国にするのは、どうにも忍びないのです。街で子どもたちを見るたびに、知り合いに子どもができるたびに、私はそう思います。彼ら彼女らの未来に、再びあの忌わしい戦争をもたらしてはならない、と。
戦没者のご冥福をお祈ります。 信海 忠如 拝
受戒の報告
7月27日(火)
生まれてから28年と60日、日にして1万日強、秒にすると約9億秒、無宗教者の立場に別れを告げて、明日正式に仏教徒となることになりました。無宗教者最後の日は、大学の同級生、石井くんと回転寿司を食べていました。彼とは18歳で会ってから10年間、平均しても3日に1回1時間は電話で話してるんじゃなかろうか。2週間に1回程度飯を食べに行く、お互い決してホモではないですが、仲良しです。
今回、行きは「ムーンライトながら」(*1)を利用する予定でした。以前も岐阜、愛知を旅した時に使ったことがありますが、東京駅を23:43発、大垣に6:53着の、毎日走っている夜行快速列車です。
というのも、ちょうど今「青春18きっぷ」の利用期間なのです。このキップは1回分2,300円(*2)で丸1日JRの「普通列車」に乗り放題です。特急や新幹線には乗れませんが、「ムーンライトながら」は普通列車なので使えます。大垣からは米原経由で福井に行くことになりますが、ここでも特急を使わずに普通列車で行くと、ムーンライトながらの指定席券510円を加えた2,810円ほどで福井まで行けることになるのです(*3)。
石井くんと品川駅で珈琲を飲みながら、さてそろそろ行くかと思った矢先… 切符がない! 先週末に買っておいたのですが… 無い。家に置き忘れました。断念。
というわけで、石井くんの家に泊まって、翌朝新幹線で行くことに。
(*1)「夜行快速列車」、こちらのホームページに詳しい。
(*2)といっても5回分セットでの販売である。つまり11,500円。けれど、オークション等で活発に売買されており、たいがい売れる。今回私も、残りの4回分を定価の9,200円でオークションで売った。
(*3)正確には同切符は零時で1日が切り替わるので、東京を23:45に出てから、0時になるまでの区間(東京~横浜)は別に切符を買っておく。けれど、いずれにしても3,000円程度で福井まで行けるのだ。
7月28日(水)
朝の新幹線で一路福井へ。米原から「特急しらさぎ」というので向かったのですが、たまたま一番前の席に座ったら、なんだかハイテクで、「パソコン用」と書いたAC電源が装備されていました。「いいのかなぁ?」と思いながらも携帯電話を充電。
それにしても私はやっぱり電車が好きです。タバコを吸いながら、本を読むか、寝ているか。快適、快適。これが飛行機だと、タバコは吸えないし、乗降に時間がかかるし、死の恐怖に怯えるし…。私は北海道だろうが九州だろうが、電車かフェリーで行くのです。
さて、短パン、Tシャツでここまで着ましたが、福井駅に着く直前に、「しらさぎ」のトイレでスーツにお着替え。ネクタイに迷ったが、派手目なものしかなかったので、葬式用のネクタイを持ってきました。これも一つの「法事」なんだろうから… と。
福井駅から、南直哉師の寺がある越前東郷駅に向かう越美北線は、先の豪雨で運行していません。電車のダイヤ通りに代行バスが運行されているのですが、「特急しらさぎ」が10分弱遅れてしまって、待ち時間1時間。仕方ないのでタクシーにて向かいました。
タクシーの運転手さんとは、やはり豪雨被害の話に。決壊した足羽川を眺めながら、南師の寺に。越前東郷の駅前は、道の真ん中に小川が整備されていました。豪雨では溢れてしまったそうですが、きれいな町並みです。
師のお母様にお茶やスイカを出していただきながら、しばらく世間話をし、さて本題の受戒(*4)の話に。儀式の前に、これから行う事柄を、よく解説してもらいました。
まず、戒を受ける前に、懺悔(さんげ)があります。
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
要するに、おいらは今までたくさん悪いことをしてきた。で、それは欲望どっぷりのお馬鹿さんだったがために、身体(行動)、言葉、心(思い)から引き起こしてしまったものです。我は一切を今ここに懺悔します、ということでしょう。
結果的に今こうやって、仏の道に入るということは、これまでの「やり方」じゃうまくいかなくなったということです。その意味で、今までは間違っていたんです。謝りましょう。
懺悔に続いて、「三帰依文」、仏法僧の「三法」への帰依を誓うのです。特に今現在の私は、原始仏典に多くを学んでいますので、歴史的個人としてのゴータマ・ブッダには多大な恩があります。また当然にその仏が説いた「法」に帰依する。そして、その仏の法を今私に伝えてくれる「僧」ないしその集まりに帰依をします。「帰依」とは何か。辞書を引くと「神仏や高僧を信じてその力にすがること」と書いてあります。「すがる」という表現は稚拙だと思います。まぁ、言葉で説明するのは難しく、五体頭地礼のできる対象であるというのが肌感としては掴みやすい気がします。宿泊参禅会の感想に以前書きましたが、両肘、両膝、頭の5点を地につけて礼拝できる対象というのはそうそう無いでしょう。
懺悔、三帰依を“前提として”、その後に「戒」を受けることになります。今回、私が受ける戒は、菩薩戒というもの。その歴史的位置付け、意義にはじまり、一つ一つの戒の説明をしてもらいました。上座部の修行層らの“ルールとして”の「戒」に比べて、それほどビシッ、ビシッと規定されているわけではないようです。大乗では、根本に「菩薩」という思想を置いていますから、現象としての規定だけではなく、「立法趣旨」を汲んで解釈をする必要がある構造のようです。従って、私の生活において、具体的にどう解釈、規定していくかは、これから考えていかないといけません。とりあえず教科書的な(?)説明は、以前に作った「戒律」のページにて。
一通り説明が終わってから、儀式に入りました。
師が読経をし、懺悔、三帰依文に続いて、一つ一つの戒について師が「よく保つや否や~?」と私に呼びかけるのです。私をそれを受けて「よく保つ!」と応えます。一つの戒について、三度、このやり取りがあります。本当に、「保てるかな?」とよく考えて答えるべきだと思いました。生涯のコミットなのです。よくよく考えて、「よく保つ!」と私は、すべてを保つことを誓いました。
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師匠から授かった安名(戒名)は、 信海 忠如 (しんかい ちゅうにょ) という名です。師匠が私につけてくれた、仏弟子としての名前です。大事にします。そして最後に、ブッダから歴代の祖師、そして師匠を経て、今私に辿りついた証となる血脈(けちみゃく)を授かりました。30分くらいで儀式は終わりました。 本堂で、師匠と私、二人だけの法要でした。猛暑の中、法衣を“フル装備”の師匠は、汗が噴き出していました。汗を拭いながら、本堂に響く声。こういうのを、「法悦」というのでしょうか。その姿に、この上ない感謝を感じました。同時に、これからの我が人生、どう恩返しをしていくのか。よく生きていかねばなりません。 (*)写真は血脈と安名のかかれた札。こうやって持ち出して写真を撮るのは不適切なのかもしれませんが、お許しください。普段はちゃんと仏様の横に安置しています。 |
(*4)私、ずっと「受戒」と言っていますが、「授戒」という表現も多いです。戒を「授」ける側と「受」ける側による違いですので、私は「受戒」と言っています。
「終わったら食事をしましょう」ともとともと聞いていたのですが、だいぶ気軽に考えていました。お寺で食事をとるのか、あるいは街に出てどこか探すか。今思えば、普段の私らじゃあるまいし、街をうろつきながら、「ここにしよか!」なんてなるわけはないですね。
時間になると、タクシーがビッシッーと寺に付けているのです。日曜日に理容室でヘアカラーなんかしてきた私なんぞには分不相応の、すっごい由緒ある料亭を師匠が予約してくれていたのです。恐縮です。正直書いてしまうと、タクシーに乗りながら、(タクシーの距離も結構あるようだし、料亭もかなり高そうだし)「あっちゃー 財布に2万くらいしか入ってないなぁ… 足りるかなぁ」と心配していました。こちらが感謝をせねばなりません。これだけのことをしてもらって、一銭も払っていないのです。タクシー代を出そうとしましたが、「今日はお祝いだから」と、頑なに断られてしまい、本当に恐縮しまくりです。これから、本当に、しっかりと生きていかねばいけません。
マックとコーラで育った身、なれない和食をご馳走になりながら、色々とお話をさせてもらいました。半分以上、女将さんがどっぷり横にすわっていて、これまた正直に書いてしまうと、「女将さんよぉ、もうちょっと師匠と話がしたいんだが…」などと思いつつも、楽しく過ごさせて頂きました。
20時半ころ、師匠と別れ、駅近くのホテルに。情緒も何もない繁華街のど真ん中の「APAホテル」でしたが、天然温泉らしいスパがあり、長旅の疲れを癒し、受戒の日は終わりました。
7月29日(木)
仕事で疲れ気味だったので、チェックアウトの11時ぎりぎりまでホテルにいました。この日は、永平寺を参拝して東京に帰る予定。タクシーで永平寺に。まぁ、そりゃ、曹洞宗の大本山ですから当たり前でしょうが、すっごいお寺です。門前にも店がズラッーと並んでいます。
一般観光客と同じく、500円を払って拝観してきました。冒頭、修行僧の方が参拝者を集めて説明をするのですが、随分と立派にこなしていましたね。「これも大切な修行です」と仰っていましたが、まったくその通りでした。巷、永平寺批判もよく聞きますが、この日、私がみた限りでは、少なくとも私含めた一般人なんぞよりはずっと立派に、すばらしい修行をされています。ちょうどお昼で、僧堂から食事前の読経が聞こえました。青松寺の宿泊参禅会で読んだものと一緒で、ちょっと感激でした。
拝観順路の最後に、煉瓦(?)の補修の寄付を受け付けてらしたので、僧伽へのせめてもの感謝に、手持ちの千円札(ですが…)をすべて出させて頂き、永平寺拝観は終了。
福井に行き、永平寺に行き、そして仏教徒となった記念すべき2日間ですので、帰りに永平寺の門前町の古美術店で、お釈迦さんの仏像を買ってきました。私の本尊として、これが原始仏典のあの言葉を遺したブッダなんだと思って礼拝していきましょう。
我が部屋の本棚の一角を、仏壇(?)にしました。といっても、ほかに何もなくては淋しいので、修学旅行で買ったわけのわからぬ置き物や、お地蔵さんの貯金箱、青松寺の除夜の鐘でもらった猿、水栽培の植物なんかをアレンジしてます(笑)
おわりに
さて、これから、また仏道精進していきましょう。
戒律をどう自分の環境の中で解釈していくかを考えなくてはなりません。で、当然守らねければなりません。また、座禅も疎かにしてはいけませんね。師匠にも言われましたが、3分でやめてもいいから、とにかく一日一回は“あの格好”をするようにします。「戒」「(禅)定」の最低限をした上で、私にとっての「生き方」は、これから見つけていきましょう。
師匠が私を察して言ってくれたことが身に染みます。
私、時に現代仏教や、僧侶に、生意気を吐いてきました。無論、「一石を投じる」なんていう気持ちは皆無です。私は単に、自分のためにやってます。宗教にまったく限らず、インプットだけではなくアウトプットしていくことが、ものごとの理解を深めることだと私は思うのです。思っていること、考えていることを、言う、書くというのは、大変なことです。きっちりと頭の中を整理しなければいけません。加えて、言った以上、書いた以上は、その時としての自己の考えを確定します。後に間違ったと思ったら、間違ったことを自己で認識し、訂正せねばなりません。
これからも、私は私なりに、その時なりに、正直にものを言うでしょう。
ただし、今までは部外者であったわけです。外野からの「ヤジ」で結構でした。しかしもう今の私は、仏教界、広義の意味でのサンガ(僧伽)の一員です。ましてや、三宝に対する帰依を誓った者であるならば、批判するにしても、その根底に「身内」であるという認識、愛情、敬意が必要でしょう。自らの属する集まりに対して言うのですから、「建設的」であるべきです。このことをよく肝に銘じます。
最後に、南直哉師匠、ありがとうございました。また、このような法縁を頂いた、萬年山 青松寺様にも深く御礼申し上げます。メッセージもらっていたけど、いつも励ましてくれる明美ちゃんもありがとう。すべてに感謝し、受戒の報告を終わらせて頂きます。
2004年8月1日
師匠と初めて会った日に…
信海 忠如 合掌