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諸悪莫作 ~ 戒を受けるに際して
受戒の字が示すように、「仏教徒となる=戒律を受ける」といえる程、「戒律」は重んじられています。原始仏典をめくると、ブッダの死とその前後が記されているとされる「大パリニッバーナ経」に、
お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである
(訳は『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経 -』中村元 訳、岩波書店による)
とあります。「戒律」は重要視すべきものです。
「戒律」に関連して、最近、興味深く考えていることがあります。
「戒律」の内、「五戒」や「十重禁戒」など、基本となるものはほぼ「~してはいけない」、つまり「禁戒」です。後の大乗仏教を受けては、「六波羅蜜」など積極的に“促す”教えがありますが、初期の仏典をあたると、7~8割は「~してはいけない」「慎め」「気をつけろ」といった話のような気がします。
別の題材を見てみます。「七仏通戒偈」(しちぶつつうかいげ)という、数少ない宗派を問わず共有できる(であろう)教えがあり、仏教の“エッセンス”が凝縮されているものがあります。有名な漢詩、
諸悪莫作(しょあくまくさ/諸々の悪をなさず)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう/おおくの善をなし)
自浄其意(じじょうごい/自らその意(心)を浄(清)める)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう/これが諸仏の教えである)
というものです。原始仏典の「ダンマパダ」に典拠があります。
すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、-これが諸の仏の教えである。
(訳は「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元 訳、岩波書店による)
玄侑宗久師は著書「私だけの仏教 あなただけの仏教入門」(講談社)において、この七仏通戒偈について「悪いことをしない、ということが、善いことをすることよりも優先されているのは重要だと思う」(P.52)と指摘するのです。
また、中村元博士は先述の「大パリニッバーナ経」にて、「悪い欲望をいだかず」という語への註釈として、「この文章からみると、仏教は欲望または欲求を抑圧することを説いたのではなくて、「悪い欲望」を制することを教えたのである」と述べています。
そう、何に興味を示しているかというと、「悪いことしない」「悪い欲望を抱かない」ということが、仏教のもっとも重要なことなんじゃなかろうか、ということです。
「仏教」「修行」というと、「欲望、煩悩を滅する」ということになるわけです。禅定の深まりの方向性を示す教義をみるに、究極的にはそうであろうと私も思います。しかしながら、例えば「喜びと苦しみからの離脱」「心の働きが完全に滅した境地」などという段階は、言葉の上では語れても、現実問題として想定するのは、少なくとも私など一般の者にはなかなか困難です。
あるいはもっと初歩的なところでは、「いいことしよう」とか「仏道精進したい」というのは「欲望」じゃないのか? といった話さえあります。何か目標を掲げて、そこに向かって努力するような類の話も否定されるのか? と。これについては、南老師は「欲求」と「欲望」と「意思」とは区分して考えなければならないと言い、人間が生理的にもつ「欲求」と、「想い」である「欲望」は確かに別物だと私も思いますが、若干一般には難しい話かもしれません。
そこで、私含めて「入門編」としては、「悪いことをしない、悪い欲望を持たないということが重要なのであって、いい欲望を持つことは別に構わないんだよ」という方便もアリなんじゃないかと思うのです。
つくづく人間はエネルギー的な存在だなと思います。「自分」「俺」と、確固としたコントローラブルなもののように日ごろ私も言いますが、気をつけていないととんでもないところにエネルギーが飛んでいってしまいます。私、一応まだ28歳ですから、ふと性欲にドワッーーーと襲われることがあります。私のボキャブラリーだと「取り憑かれる」という表現がぴったりなのですが、急に何かに取り憑かれることがあるのです。性欲、異性に対する欲、名誉、金銭…。ふと解放されると、「なんであんなことになってしまったのだろう、こわいこわい」と思います。とても、自分を統制できていないと思うのです。このあたり、「初めての本 上座仏教」(大法輪閣)というスリランカの長老が書いた本の「心の不思議な力」という章に、「心は体の支配者です」「心はただ刺激をほしがっている」「心は刺激のためなら殺人もする」と題して心の働きについて語られた箇所に大変共感しました。同じように「取り憑かれる」という感じがする人は読んでみてください。
私がいいたいのは、「悪いことをしない」「悪い欲望を抱かない」ことによって、「心のエネルギーの矛先を限定する」ことが大切なんだと思うのです。まずは自分を、心を、「悪」に向けないことによって、取り憑かれないようにしよう、苦しみから解放されようということです。エネルギーの矛先を「悪」には向けないようにした上で、じゃぁどこに向かわすのか、ひたすら仏教研鑽に励む人もいるでしょうし、ボランティア活動に精を出す人もいる、あるいは家族、子どもを守る人も、商売人として社会に貢献する人、いろいろいるでしょうし、それはそれでいんじゃないかと思うのです。現実的なとっかかりとしては。
ここで持ち出すのが適切かわかりませんが、南老師が「修行道場に入るとまずは僧侶としての一定の振る舞いを叩き込ませるんだ。その上で、その後にどう修行していくのかは、本人の問題である。」といったことを仰っていたことが思い起こされます。まずは「悪」から離れることで、とりあえず「まとも」になる。「まとも」になった上で、なにを「善」と掲げて、残りの人生で奉じていくか、それは個々人が考えたらいんじゃないかと思うわけです。
その、「まとも」に生きていく土台となる、なしてはならぬ「悪」を律しているのが、「戒律」なんじゃないかなと私は思います。
「戒律」を、そのような「生きていく基礎」と考える時、それは生きる時代によって、生きる環境によって、極めて慎重を要しながらも、「解釈」をほどこさねばならないでしょう。単なる「昔のお達し」ではなくて、現代において、私において、どう解釈し、どう守るのか。それを私は受戒に際して考えたいと思います。