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ヴィパッサナー瞑想体験記
・日本テーラワーダ仏教協会
10月26日、日本テーラワーダ仏教協会という宗教法人の、ヴィパッサナー瞑想&法話会に行ってきた(無料である)。しばらく前にリンク集に追加していたように、興味をもっていた。スリランカや、ミャンマーの僧侶(「長老」と呼ばれている)が上座仏教を日本で伝える数少ない教団である。
テーラワーダとは漢訳すれば「上座仏教」のことで、上座(部)仏教とは、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジアなどの東南アジア方面、つまり南に伝わった仏教である。中国、朝鮮を通じて日本に入ってきた北伝仏教(大乗仏教)に比べ、初期仏教、すなわち釈尊の教えに近いものであるとされる。
確かに、大乗仏教は、末法思想といって、「もはや釈尊の教えなど実践してもしかたない、念仏を唱えて阿弥陀如来の本願にすがって極楽往生しよう」だとか、おおよそ単純に考えると仏教(仏の教え)とは乖離していると私は思う。(※これは浄土系の教えで、いわゆる禅宗、なかんずく曹洞宗は釈尊の教えに近いと思う)。
一方、上座仏教では、未だに戒律も厳しいし、ものすごいレベルでお経を暗誦しているし、他で聞いたところによれば映画を観ることすら許されず、厳粛に釈尊の教えを守っている。
さて、私は現代の宗派・宗門の信徒として云々というよりは、釈尊や道元禅師の「教え」を了解したいという身であるので、このような初期仏教に関心が強い。
そして、たまたま書店で『初めての本 上座仏教』という本に出会い、日本テーラワーダ仏教協会を知ることとなった。
・『はじめての本 上座仏教』
この書は、同協会の長老の一人である、アルボムッレ・スマナサーラ師の著書であるが、2つばかり学ばせてもらった。
1つは、「心」というものの解明について、大変一般人にわかりやすく説いてくれている。簡単に要約すれば、
- 心と身体は別々であるが、互いに関係し合っている。
例) 「心が病んでいると身体も元気がなくなる」等、心と身体の関係を6つの類型に分けて説明されている。 - 「心」は、単に刺激を求めているだけである。そしてその刺激を受けて、一瞬一瞬刻一刻、エネルギー(衝動)を発している。
- 電器を点けたり消したりするのを猛スピードで行うと、ずっと点いていると錯覚するのと同じように、「心」の刺激を受けての“作用”の生滅のスピードはものすごく速いので、「心」が確固として存在しているかのような錯覚を受け、ひいてはその心を拠り所として我と錯覚してしまう。
- しかし、「心」は単に刺激を受けて瞬間瞬間にエネルギーを発生している、作用しているだけである。
- 加えて、「心」が求める刺激は、良し悪しを判別していない。殺したいという刺激を受けて、殺してしまう人がいるように。
といったところであり、従って、「心」というものをよく観察して、一歩引いて心、すなわち今発しられている衝動、エネルギーを観察することが妄想から離れるために大事であるとする。
私はこれはすごくよくわかった。
私は、“怒り・不安で暴走してしまう症候群”があって、仏教の門をくぐってみた一つの原因である。お恥ずかしい話であるが、例えば交際している女性が電話に出なかったとする。そうすると、もう烈火のごとく電話をするのである。着信履歴が埋まる程に(笑) 恐らく、「俺が話したいと思っているのになぜ電話に出ない!」という怒りと、「もしかして俺のことを嫌いになってしまったのではないか?」という不安の二面がある。そうして暫くすると向こうから連絡があり、例えば「会社の同僚と飲んでいた」とか「風呂に入っていた」とか「寝てしまっていた」などとなる。そして、そう一言話せば私は落ち着くのだが、あちらにしたら「なんでそんなことするの?」となるわけだ。「勝手に責められてる、疑われてる」みたいに。後になると、あの時の俺は何だったのか? と何かにとりつかれていたような気分になるのである。「まぁまぁ、忘れようよ」としたところで、時既に遅いこととなり、そうやって過去5年くらい、何人かと離れてきた。ちなみに、ある程度仏教を実践してきたここ数か月、この症候群とは無縁となった。
思うに、この時の自分は、心がキャッチしてしまった「怒り」と「不安」の衝動に、完全に踊らされているのである。
さて、その観察する方法として、「ヴィパッサナー瞑想」というものを採用している。彼ら曰くは、これは釈尊直伝のものであるらしい。
2つ目は、慈悲の瞑想といって、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という徹底した教えである。
・ヴィパッサナー瞑想
さて、ヴィパッサナー瞑想であるが、「ヴィ」は「ありのままに」、「パッサナー」は「観察する」という意味で、ありのままを観察ことである。ありのままを観察することによって、心の状態を把握し、妄想から離れる、といったところ。
瞑想指導で行われたのは、まず座って目を閉じ、片腕をゆっく~りとスローモーションのように上げていくのである。そして上がる感覚を感じながら、「あがります、あがります、あがります」と、念じるのである。念じきるのである。それ以外の妄想が起きないように念じるのだ。
- スローモーションで
- 感覚を感じながら
- 実況中継する
この3点が肝要である。
次に、「立つ」瞑想。座った状態から、立つまでの一連の動きを、同じくスローモーションで、且つ感覚を感じながら、実況中継する。例えば、「右手着きます、左手着きます、右足前に出します、左足前に出します、立ちます、背筋伸ばします」といった具合に。
あるいは歩く瞑想。「右足上げます、運びます、降ろします、左足上げます、運びます、降ろします」と。
そして最後に座っての瞑想。「(目を)閉じます、閉じます、閉じます、背筋伸ばします、伸ばします、伸ばします、(息を)吸います、吐きます、吸います、吐きます」、そして最後に「待ちます」と念じ、何か“沸いてくる”ものを待つ。例えば、足の痛みが沸いてきたら「痛み、痛み、痛み」と念じ、自然呼吸によって腹が膨らめば「膨らみ、膨らみ、縮み、縮み」。妄想が沸いてきたら「妄想、妄想」と。この段階では、「~します」とは念じずに、「妄想、妄想」とする。「妄想します」ではなく。我を離れて観察する段階なのであろう。
・慈悲の瞑想
「慈悲の瞑想」であるが、まず全文を掲載する。
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように(3回)
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
私の幸せを願うことに始まり、親しい人々、そして生きとし生けるもの。次からが極みである。嫌いな人々、嫌っている人々の幸せをも願い、そして最後にもう一度生きとし生けるものである。
さて不殺生戒の説明として、原始仏典にこういう文章がある。
「どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人にとっても、それぞれ自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。」
『ブッダ 神々との対話』(岩波文庫)
私はこれの解釈に関して、当初、「自分がされて嫌なことは、人にするな」的な、道徳的な捉え方をしていた。しかし、“正しい”解釈がどうなのかはともかくとして、私のような一般凡人にとっては、以下のような導入解釈の仕方をすると、ずいぶん理に叶って理解できると感じた。
人は自分が一番幸せでありたい。そして自分が幸せであるためには、親しい人々が幸せであった方がよかろう。親しい人々が幸せでないのに、自分で幸せでいられる、ということは、まぁそうあるまい。先の私の症候群の話しで言えば、親しい人々に嫌な思いをさせれば、めぐりめぐって自分が不幸になることがわかっていなかった、ということだろう。
さらに進んで、嫌いな人や、嫌っている人々も、そしてすべての生きとし生けるものが幸せであらねば、自分の幸せを犯されるかもしないのだ。周知の通り、何の罪もない人が、道端で“不幸な”人の狂気によって、幸せを奪われる事件が後を絶たない。あるいは、幸せな家庭を築いていても、世の不幸な人々の戦争によって死んでしまうかもしれない。
自分がハッピーでいるために周りのハッピーを願う、という自己本位な発想なのであるが、理に叶ってはいないだろうか。自分が幸せになる、そして、幸せであり続けるために、生きとし生けるものの幸せを願うわけだ。
逆に考えると、例えば、一連のオウム真理教事件で、不幸にも亡くなられた方がいる。これら狂気に走った教団・信徒に、よく言われるように現代社会の歪みを見出すのだとすれば、「社会の産物」である。
さて、そのとかく抽象的に責任を負わされる「社会」というのは、いったい誰がつくってきたのか。国民全員である。然らば、社会の産物の弊害を、どこか別の国民が受けただけであろう。たまたまその矛先が向いてしまった方は不幸としか言えないが、社会全体として捉え、且つ社会の構成員であることから極限すれば、自業自得ということになる。
学校であれ会社であれ地域であれ、“変な人”はいるわけであるが、変であるとして冷遇することは、その人物がいつか、自分かもしれないし、他の人かもしれないが、傷つけるかもしれないのである。自分が、そして他の誰かが、傷つかないよう、変な人であろうが何であろうが、すべての生きとし生けるものの幸せを願うのがよかろう。
繰り返しになるが、本当の釈尊の真意は今は私にはわからない。しかし少なくとも私には、自分が、そして親しい人々が幸せであるためにも、世の中が平和で、衆生が幸せであって欲しい、そう思うとスッと理解できたのである。
・まとめ
終わった瞬間の感想は、「長かった~」である。現地入りしたのが13:30。礼拝が始まったのが14:00。この礼拝というのも、パーリ語で礼拝文、三帰依文、五戒文、日本語で懺悔誓願の文、パーリ語で仏陀の九徳、法の六徳、僧伽の九徳、三宝にたいする懺悔、日本語の慈悲の瞑想など、実に40分以上に及ぶ。ましてほとんどがパーリ語なので、ひたすらカタカナを発声している域を出ない。
その後法話があって、瞑想指導実践が始まったのは16:30である。既に2時間半経過。けれど、瞑想実践の前にまた長老の長~いお話があって、かくして実際に身体が動いたのは17:30頃からか。そして、一通り瞑想指導が終わって時計を見ると、20:30であった。とにかくスマナサーラ長老は話が長い(笑)。私からすると、「それ、わかるよ」と思う事柄についても、二重三重に“たとえ話”が出てくるのである。まぁ、他の人は楽しそうに聞いていたので、私が悪いのだろうが、正直、眠くなってしまった。
解説したように、ヴィパッサナー瞑想は、自分の状態を客観的に知る、という点で私なりに有効に消化したい。例えば、怒りが起こった時、「あ~まずいぞ、怒ってきたなぁ」と頭の中で思う。そのように、心というものは自分がコントロールしていて、さらにはそれが一貫性をもっていると錯覚し、「自分」の根拠であるとさえ思っていたりするのだが、そうではなくて、結構勝手気ままに動いてしまう。それを観察することによって妄想から離れる、という点では有効に消化した。
しかしあえて、評価を試みれば、南直哉老師の著書『日常生活のなかの禅 修業のすすめ』にある一節に尽きると思う。
「見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、一切の苦しみは終滅する。」
という原始仏典からの言葉を引用した上で、
「この「知る」に集中するのがヴィパッサナー瞑想とするなら、この「知る」を脱落して、「見られたものは見られただけのもの」「聞かれたものは聞かれただけのもの」、ついには「あるものはあるだけのもの」に「なる」ことが、「只管打坐」だと言えよう。」
と老師はいう。
つまり意識としての「そう知る」ということではなく、坐禅という直接体験を通じて身心脱落し、「そうなる」ことが道元禅師の坐禅、只管打坐ということである。坐禅は、ヴィパッサナー瞑想を包含しているのではないでしょうか。
あるいは疑問が残るのは、「知る」「観察する」と言うが、この主語は何か。そして、その対象は何か。すると、主体と客体が一緒であるように思えてしまうのである。顕在意識が潜在意識を知ろうとしているのかわからないが、要は、心というものを心が知ろうとしているわけで、それがちょっと疑問である。それよりは、全体として、「そうなる」という方が、しっくりとくる。
慈悲の瞑想は好きだ。なぜお経のような言い回しで語るのが私にはよくわからないのだが、私としては日常語として、すべての生きとし生けるものの幸せを願っていたい。
初期仏教にわずかながらでも触れられたことは幸いに思います。スマサラーナ長老、協会の皆様、ありがとうございました。また一介の在家人が、一度の経験でこのようなことを語るのは僭越にも程がありますし、当然に理解の不足していることだらけでしょう。その点は、ご了承頂き、またご海容ください。